京阪車内で結婚式、鉄ちゃんカップル?
京阪電車というと、阪急、阪神、近鉄、南海と共に、近畿地域を走る私鉄王手に数えられる。
1910年(明治43年)、村野山人や松本重太郎など京阪神地区の財界人と、東京の渋沢栄一、岡崎邦輔など実業家グループによって開業した。
その本線は、古都・京都と商都・大阪を結ぶ。
淀川の東岸、「京街道」(大坂街道)沿いに走っている。
淀川東岸、京街道沿いに走る京阪電車
京街道は奈良時代以来の古道に由来すると言われている。
豊臣秀吉が、「文禄堤」として街道を整備し、後に京街道と名を変えた。
江戸時代は、江戸~京都間を結ぶ東海道五十三次に続く商都・大阪への街道であり、東海道五十七次という名称もあった。
しかし、商都・大阪の物運は大きく淀川の舟運に依っており、京との人の往来も、下りは特に淀川舟運が優勢で、幕府から「東海道並み」の建て前が求められる宿場は経営に苦しめられた。
1876年(明治9年)、淀川の西岸に官営鉄道(現・東海道本線=JR京都線=)が敷かれていた。しかし運賃27銭と高く、上り12銭、下り10銭の淀川蒸気船が貨客輸送の主力だった。鉄道輸送は舟運に負けていたのだ。
そこに渋沢栄一らが、民営の電気鉄道・京阪電車を建設し参入したのだ。
大蔵官僚を退官の後、さまざまな民営事業を興した渋沢に代表されるように、「民」の力が遺憾なく発揮される民営鉄道事業開業であった。
三つ巴の競争 京都ー大阪間
しかも京阪に遅れること10年の1920年代に入ると、現在の阪急電車京都線になっていく阪急系列の路線が設けられていき1930年には京都ー大阪直通の、阪急京都本線となる。京阪にとって、競合相手が国鉄のみならず阪急という、三つ巴の競争となったのである。
この三つ巴の区間と、大阪ー神戸間も含めて、名にし負う鉄道会社間の熾烈な競争区間となっている。
他の会社の路線との接続、乗り入れの便利さや、目的地までかかる時間のスピード、また運賃の安さの競争、また不動産、デパートなど異業種を組み込んでのビジネスの競争が繰り広げられてきたのである。
特急をチャペルに仕立て結婚式
そんなことを踏まえながら、クリスチャン新聞1997年11月30日号に載った記事を読むと感慨深い(自分が書いた記事だったw)。
京阪の特急というのは、特急料金は必要ない。普通電車と同じ運賃で、切符一枚で乗れてしまう。
京都・出町柳から大阪・京橋まで、もし普通電車で行けば1時間50分近くかかるところ、特急なら40分だ。
その短い時間で、手際よく結婚式をしなければならなかったことだろう。
京阪特急は、私が子どもだった半世紀ほど前、「テレビカー」ということを運用しており、各車両の一番前に大型テレビがドアの上方に備えつけられており、電車についたアンテナでテレビ放送の電波を受けるため、画面がしょっちゅう乱れていたのを思い出すのも懐かしい。
母方の祖父母が京阪沿線に住んでいたので、私も年に何回かは京阪に乗った。特急以外の急行、準急、普通などは、緑色の車両なのである。
特急に乗ったのは、祖父母に連れられて京都に行ったのが初めてだった。いつもの通勤用ロングシートではなく、京阪なのにボックス席だったのが新鮮だった。もちろんテレビカーも!
郷愁に駆られて京阪の車両を貼っておく。
さて、このカップルがなぜ京阪車内での挙式に至ったかが気になる。
「おけいはん」キャンペーンの始まる3年前
記事には「ホテル京阪京橋の企画により」と記されている。
カップルの片方、あるいは両方が鉄道ファンなのかもしれない(「仲良きことは美しき哉」志賀直哉)。
ホテルの挙式担当者と、何となくそんな話が出て、「京阪車内で結婚式できますよ!」という提案になったのかもしれない。
京阪電車からすれば、いささかなりとも運賃収入増になるわけだ。
それにしても、一両貸切で、車両を仮設チャペルに仕立て、終点の京橋では、毛氈(もうせん)を敷いてライスシャワー、駅長が新郎・新婦に花束を贈るという大サービスぶりだ。
JR、阪急と熾烈な競争を繰り広げているなかでのお客様サービス、あるいは会社へのイメージ向上の意識の表れだろう。
系列のホテルとの密接な連携が光る。
何より、このご夫婦が末永くお幸せに、ということを願う。
京阪電車では2000年からテレビなどで「おけいはん」キャンペーンを繰り広げている。
「はん」というのは大阪や京都で「さん」のことを「三浦はん」と呼ぶ場合があり、それに掛けているわけだ。
今年の、京阪乗る人「おけいはん」キャンペーン
おけいはんキャンペーの始まる2000年に先立つこと3年。
この結婚式は、おけいはんによるイメージ戦略に向かっていく模索の一つかもしれないと思った。
FB「日刊・生放送」(第1026回)で、著者自らが
愉快にこの話を解説しながら語っております
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