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感覚の根元にあるもの

グルメというほどいいものばっかり食べてるわけじゃないけれど、自分の舌にはわりと自信がある。

料理自慢でもないけれど、わりと他人様にお弁当作ってとかごはん作ってとかリクエストされるほうだ。

とはいえ味なんて本当に個人の感覚、感想の最たるものだと思うので、きっと私の料理は甘すぎるなどと言う人が居るのもわかっている。

ただ、そう言われた時にオドオドしてしまうか、「ふん、味オンチめ」と心の中で思えるくらいの自信があるかくらいしか、どの料理人にも大した差はないと思っている。

味覚に関してはこんなに不遜な私だけれど、ファッションに関しては全く自信がない。

おしゃれな人に「その服ダサいね」などと言われたらオドオドしてしまうだろう。

でもファッションだって、個人の感じ方でしかないのになと思う。

なんで味覚には自信が持てるのに、ファッションセンスではこんなに簡単に自分の感覚を無視できてしまうんだろう。

一つ思い当たるのは、私には味に関して完全に理想の形があるということだ。

目指すゴールが決まっていて、そこに近づくための動作が調理。

理想に近ければ美味しいし、遠ければ不味い。

自分の中に正解がしっかりあるのだ。

でもファッションに関しては、私は全くの無知だ。

「この袖の形は何年代の〇〇の流れを汲む」とか、「この色が流行った時の世相はこうだったから今また再流行しているのだ」とか、そういう理屈がわかっていたらきっと、ファッションにも自信が持てるのだろうと思う。

・・・・この前「プラダを着た悪魔」を観た影響で、ちょっとカブれた発言をしてしまっている。

なんにしろ、目指すところがはっきりわかっているものには、人はやる気を持って取り組むことができるんだろう。

ほんとにそれだけだと思う。

腸の病気になってからは食事改善で味覚がだいぶ変わった、というか、戻った。

子どもの頃、時代にして昭和の終わり頃に食べていた、母が作ってくれた料理の味に戻って行った。

怪しい多国籍料理やジャンクフードに目移りした時期もあったけれど、結局元の場所に戻ってきた。

生まれた川に戻って産卵する鮭のように。

多くを語りたくなるジャンルには、そういうホームベースがあるような気がする。

まだ卵もうまく割れない頃から育ててもらった味覚を頼りに、私は今日も台所に立つ。

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