『いのちの車窓から』を読んで、星野源は根本的に「作り」が違うんだよなと思った

インターネットで見かけた一節を見て、まぁ読んでみるかと思った。

 それまで、相手に好かれたい、嫌われたくないという想いが強すぎて、コミュニケーションを取ることを放棄していた。コミュニケーションに失敗し、そこで人間関係を学び、成長する努力を怠っていた。
 それを相手に「人見知りで」とさも被害者のように言うのは、「自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言をしていることと同じだと思った。

正直なところ、この一節を見てものすごく反感を抱いた。いや、別に自分は人見知りではあるが、それを人にさも被害者のようには言っていない。とはいえ明確に「コミュニケーションを取る努力をしない人間」を非難している論調だ。

けれど、この文章は後段のほうが大事なのだ。やはり全文を読まなければいけない。一文だけを見てキレるインターネットしぐさはやめよう。

「お前ウザいよ」と言われた幼いあの日から、嫌われないように自分の性格を歪め、そもそも人間が好きではないと思おうとしていたが、僕は人が、人と接することが大好きだったのだ。
 
集団の中でわざわざ一人になる必要はなくなった。そもそもどんな人間も一人であり、だからこそ人は手を取り、コミュニケーションを交わすのだ。(強調引用者)

そう、星野源は絶対的な「陽」なのだ。根本的に人間が好きで、素直にそう思える人なのだ。そういう風に生まれたかったよ。

きっと人に恵まれて育てば、人間関係をやろうとする時に無駄なノイズを感じずに、単純に自意識だけの問題でいけるのだろう。けれど私は幼少期にマトモな大人に恵まれなかったので、そうはなれなかった。

彼のように根本的に人間が好きな人たちと、人嫌いの私の間に流れる大きな川は何だろうか。越える方法を探して生きているが、納得のいく答えは得られていない。きっと彼のエッセイは、根本的に人間が好きな「ふつうのひと」にはウケるのだろうと思ったが、私には遠すぎる星である。


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