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GENJI*REDISCOVERED       今日の源氏物語           「賢木」       九月七日

珍しく、源氏物語で「何月何日」とはっきり書かれている話の1つ。
「九月七日ばかりなれば」は、もちろん旧暦の「秋」の終わりの月。
2022年では、10月2日  辺りの 気候、月 の姿、です。
この話し、ある人と始めたとたんに「ながつきなぬか」でしょ。と言われました。 …自分が、普通に「くがつなのか」と話しはじめたから。
そう、こういうところで『源氏』(とか「古典」)の話し  ヤめようか。
するんじゃなかった!となるんだ。と思いました。

よく考えると、「現代語訳」の前の「原文」として目にしている物自体が、既に、漢字かな交じりの「(近)現代表記」になっていて、漢字表記になっている部分の『原文』が「ひらがな」でどう書かれているか、判りません。
源氏を読んだり、語っていたり、愛好されている人々の多くは、こんな事に
気を取られていることはない-そんな事気にならないでしょうか-『原書』での表記は?など。 名詞- 地名や 物の名前 は、漢字 に置き換えられていてもあまり問題に思いません。より理解を深めます。ですがそう、この「日付」は、その『原書』の表記とか、どう読んでいたのかが、「(近)現代表記」では判りません。 …って、どう読もうが同じ「日」ですが。
東京の FMラジオの朝の番組、人気の パーソナリティーさんは、毎月の初めの放送で、例えば3月になると「いよいよ春、やよいさんがつですよ~」と呼びかけてきます。 の、毎 月初。 そう「旧暦」の3月は「弥生」なのですが、今の「太陽暦」の3月は(旧と呼んでいる)「太陰暦」では、ほぼまだ2月なので、『やよう』ほどの気候にはなっていなかったり…。意味も判らず口にしている 毎月初めの、彼の教養の開陳、壁壁で…。
ほぼひと月の「月の何番目」と「季節・気候」のズレの(二重に)ある事も無視というか、無知なのでなのか気にも留めずに-機械的に暗記した知識、言葉を繰り出していてくれます、今も、毎 月初 。
この「弥生(やよい)」とか「師走(しはす)」とかは『和風月名』というそうです(今回知りました。「和風」と言っているのは何かあやしい…。)
『日本書紀』に「三月」等月々に「やよい」等のルビを当ててあるのだとか、奈良時代の古くから使われて来た(ともすると、請来、輸入された漢数字の暦以前からの)日本語表現のようです。 
で、9月7日。『源氏物語』の(存在しない)「原書」にはどう書かれてあったのでしょう。自分が指摘を受けた様に「ながつきなぬか」でしょうか。
漢字(に直してある)表記の「五月」を「ごぐゎち」と発音している事に習うと→「くぐゎちしちにち」と読むのが正解なのかもしれません。漢字の「音読み」で月日を言うことは、同時代のあの『枕草紙』に出ています。(九の「く」読みは呉音。)漢籍の教養があり、殿上人と丁々発止の言葉遊びが出来る清少納言は、「日付」を「漢(おとこ)詞」で書き留めています。もちろん「師走」なども使いながら。
で、『源氏物語』。「長月」と漢字が当てられていないのですから、ここは
「くぐゎち」ではないでしょうか。 …「ながつき」でしょ。と言ってくれた人に、この話(も、説明も)しません、面倒なので。

枕でこんなに長いと、ヤメようか…となるかもですが、光源氏23歳の秋のお話、有名な「野々宮」の段です。
葵上の死去-生霊事件があって、いろいろ都に居辛くなり、六条御息所は、斎宮に選ばれた姫宮と共に伊勢に下向を決め、野々宮で潔斎中。出立の日も近い9月7日、光源氏が「一目でも」と会いにやって来る。

*******   既出のページ(有料)から抜粋   *******

第10帖「賢木」の中でも有名な「野々宮」のシーン。昔から「趣深い場面」と、絵にも多く描かれている章段。
光一行の到着時間は書かれていません。辺りの秋の景色と「野々宮」という「神域」の特別な場所であることが書かれています。
取次ぎを頼むと、(それまで聞こえていた奏楽が止んで、)対面に躊躇する
六条御息所が御簾内に出て来ます。屋内に通す気配の無さに光源氏は、「
簀子(縁側)」ならば良いでしょうと案内もなしに建物に上がり込みます。
夕方の灯りを灯す前の夕闇が濃くなる殿内(即ち逆光の)御簾の内から、『はなやかにさしいでたる夕月夜に、うちふるまひたまえる様、匂いに、似るものなくめでたし。』と、簀子に上がってきた光源氏の秀麗な容姿・振舞いを(作者は(女房たちの目で))褒めます。
『賢木』帖の「絵画」で、ほぼお「決まり」で描かれて来たのが、この「野々宮」の夕月のシーンです。 その図様は、「野々宮」という潔斎場所=仮設の殿社が舞台で、枝の混でいる木の束を並べた「小柴垣」、樹皮を剥がずに建てられた「黒木の鳥居」に茂る秋草です。 周りの状景-秋の景色を描いたもの、供の人々を描いているものもあります。
で、絶対なのは「月」。 黒木の鳥居と月が描かれてあれば、屋内の六条御息所は言うまでも無く、簀子に居る光源氏をさえ省略しても「これは『賢木』の「野々宮」を描いた「絵だ。」となる伝統の図柄です。
そんな数ある絵の中には、月の形がいろいろ見つけられて、どれが正解?どう間違っている?というところから、『源氏物語』ちゃんと読まなきゃ…ということになった=自分の「源氏読み」のきっかけの一つです。
で、また「現代語訳」でここにさしかかったときに突然 ?となってしまいました。 それは、とんでもない違和感、太陽が西から昇ってくる…ような「これ違う…」だったのです。
その現代語訳は、あたかも-今昇ってきた月が光源氏を照らして…と思えるように書いてあって、その文字面から自動的に「満月」に照らされて
いる=東側(=殿社の左側)から月明かりを受けている 光源氏の姿を思い
浮かべている…自分…への違和感、「あれ、なんかおかしい…」でした。
さっそく、他の訳を探して、もちろん原文にもあたってみると。それは、『はなやかにさしいでたる夕月夜に、うちふるまいたまえるさま、』の現代語訳での驚くあやまり…?違和感(の理由)の発見でした。

源氏物語が書かれた平安時代は、「太陰暦」で月日を数えていた時代。「朔」とも呼ばれる新月が「ついたち」で、三日目の月が「三日月」=
そう、毎月の3日は、同じ形「三日月」型の月が見えているのです。『源氏物語』では珍しく『九月七日ばかりなれば、』と、「日付」が明記されて
始まっているこの章、その日の月は、「上弦」の半月なのです。 (何度もですが、その日の月の形で何日を決めていたのですから-七日=半月。)で
この「上弦の月」は、正午ころ東の地平線から昇り、夕方には「南中」すなわち、真南のその日の一番高い位置に在って、空が暗くなってきて-月として輝きだして、あとは高度を下げて行き、真夜中に(現在の24時頃)西に沈む月なのです。
陽のあるうちに野々宮に着いた一行、光源氏が簀子に上がり込んだ夕方、
彼を照らしている『夕月夜』は、空の高い処にある=これから沈んでいく、
光源氏を背中から照らしている「半月」でないといけないのです。
先に言った古画の間違いはこの月の形、上弦と下弦の混同。次が琳派好みの
少し太った=アーモンド型に描かれた月、稀に三日月が描かれた間違い!が図の(間違いの)多い順です。
明治以前『太陰暦』時代の画家はまず、その日の月の形を間違う事は無いと思うのですが、江戸時代の絵に間違い多数。……作画家が「テキスト」読んでないのでしょう。
で、「現代語訳」。「新暦」で過ごし始めた近代人、現代人は、日付と月の形が一致していなくて=〇月3日の満月もある「太陽暦」暮らしなのです。
そして、これは(自分、)小学校で習っていること…と思うのですが、満月は必ず夕方に昇ってくるもの。三日月は、夕暮れに西の空に見える月ということも忘れている、意識に無い人が、多い様です。
有名な翻訳でも「はなやかにさし昇ってきた夕月の」と、まるで満月のように訳されてあったりします。逆に、これも有名な訳-与謝野晶子の訳では、
この部分=「月」に関する節が割愛されています。「晶子先生、お見事!」と、この厄介な「夕月」でない『夕月夜』という言葉の平安時代に意味していた-使われていた状況の(検証やら説明の)ややこしさを(ひどく認識しての)訳から切り捨てられた、ざるを得なかった事を確信した次第です。
現在、ここが「野々宮」だと言われている嵯峨の「野々宮神社」が、この『賢木』で光源氏が訪ねて行った場所かどうかは不明です。また、
そうだとしても、現在の神域のように「森」に囲まれていたかどうかは判りません。原文は、秋に訪れるにふさわしい風光明媚な景色と読めて
鬱蒼と森厳な樹影に囲まれて…という気配を書いていません。(「潔斎」の間だけ使う仮設-プレハブの「野々宮」、森を切り拓いたり、樹木を植栽
したりは今の「神社」を基にした景色-考え方でしょう。) その夕方の
『はなやか』な夕月夜は、その時にそれまでと変化して起こった情景なのか、『さしいで』たのは「いつ」「どこ」からか、紫式部の言葉使いは、
混沌を招きます。-省筆の妙ともいえますが。
野々宮の周りを取り囲む森-高い樹々の上にようやく月が昇ってきて、中の空地に建つ野々宮の縁側にようやく月光が届いた情景…なのでしょうか。
先の「訳」も誤りではなく、=「高い樹の木末から離れて中空に」が抜けている-書かれていないだけなのかもしれないとも。
現代語訳を読んで、うっかり「満月」の月の出を想像した自分の間違いに気づいて、七日の半月がとても好きになりました。
皆さんは、月の形(月齢)誤解しないで読まれているでしょうか。

このあと、光源氏が手折って持ってきた「榊」を、御簾内に差し入れて、六条御息所からの歌をきっかけに中に入り込んでしまう展開に。
紫式部は、その時間経過を、月の移動によって書いていきます。-月が西に沈んでしまってから、夜が明けるまでの=6時間ほど、時間の長さと文章量がちょっと…です。イワズモガナなのでしょうか。省筆の妙…ですかね。

『夕月夜』の訳で、見事に腑に落ちた「新訳」があります。角田光代さんのお手並み-原文に説明も何も足し引きせず、『さしいでた』のは「月」でなく月の「光」ときっぱり訳されたのは、(自分がここで長々と書いた想像の)全てを叙述しきっていて、本当にすばらしいです。

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