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別子銅山での「餅つき」の思い出

2017-12-29

今日はデイサービス長老大学 スタッフの中島さんからの投稿をご紹介します。

本山町、90代女性Mさんのお話です。

Mさんは、7姉妹の長女として産まれ青年期までを別子銅山で過ごされました。
今は、とてもお元気ですが、幼少の頃からとても、病気がちでしびれ脚気(かっけ)になり、お父さんがMさんを背負子(しょいこ)に背おい町の病院まで度々下ったそうです。

愛媛県新居浜市の山麓部にあった別子銅山は、1690年に発見され、1973年(昭和48年)閉山するまで、江戸、明治、大正、昭和4時代283年に渡りました。

Mさんが過ごされた社宅は、10軒長屋で上に石かけをついて100軒ほどあったそうです。
10軒長屋の間には、水の大きなタンクがありそこで、洗濯をしたり食事の準備をしたそうです。

長屋の年の瀬の風物詩が25日過ぎから始まる「餅つき」でした。
餅つきが始まると10軒長屋の人達が総出で餅を丸めたそうです。

ここまで聞くと、普通の餅つきの様ですが、当時は町内の鳶(とび)が4〜5人の人足を引き連れ、釜、臼、杵、蒸籠(せいろ)薪を持参して行なう餅つき出張サービスです。(もち米は、これを依頼する家が用意しました。)

威勢のいい鳶の兄さんと人足が道具持参で、自宅前で餅をついてくれるのですから、結構需要があったそうです。
長屋の下からつき始め、終ると又上の長屋に移り餅をついたそうです。

『大きな、蒸籠で蒸したき、ざんじ(あっと言う間)につけた』と昨日の事の様に目を輝かせお話をするMさんが印象的でした。

私の父方の祖父も別子銅山の落盤事故で、30代の若さで亡くなりました。

毎年新居浜市曹洞宗の別格本山の瑞応寺で行われる住友合同慰霊祭に出席すると年々参拝する遺族の方が少なくなっています。

昔を語る人、昔を知る人が少なくなる中私達は利用者さんから昔の貴重なお話を聞いていけたらなと思います。


中島さんが思いを持って、じっくりとお話を聞いたことで、Mさんも様々なことを思い出されたのだと思います。

長老大学のある高知県嶺北地域から愛媛県の別子銅山まで働きに出ていた方は多かったそうです。
来年もたくさんのお話をお聞かせいただきたいです。

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