日向坂ドキュメンタリー「希望と絶望」が投げかけるものは?

はじめに

 本稿は、日向坂46のドキュメンタリー映画第2弾である「希望と絶望」を何度か観た上で感じたこと、考えたこと、答えが出ていないことなどを含めて書き出してみたものになります。この映像では何を映し、何を映さず、何を描きたかったのか、そういったものに着目しながら見ていければと思います。たぶん迷いがそのまま文字になっていると思います。読み辛い部分もあるかとは思いますが、予めご了承ください。それではどうぞ。

※先に申し上げておくと、この映画を見てから日向坂への目線が変わったかといういうとそんなことはなく、彼女らが積み上げてきたものへの信頼はより深まったし大好きなグループだというのは変わらない、というのが率直な感触です。本稿はそれを前提にした上で、映画そのものからどんなことを読み取ったか、というものを描き出す試みです。

※内容の性質上ネタバレを避けて通ることはできないです

※それぞれの回(1回目、2回目、etc…)での感想は下記のツイートで書いているので、これはそれらから抽出された部分もあります。

ドキュメンタリー?映画?

 まず本作に触れる前に1作目の話をすると、私が「3年目のデビュー」を観た際の第一印象は非常に「テレビ的」できれいなストーリーテリング、言い換えると「商業的」でわかりやすい内容だなあと言う事でした。下記のnoteは「3年目のデビュー」を観た当時の筆者の感想ですが、ここに書かれているように1作目では彼女らの足跡を歴史と成り立ちから丁寧に拾い上げ、いくつもの困難を乗り越えてきて今がある、ということを過不足なく描いています。あまりにもきれいな「物語」ですが、そこには別に嘘が入っているわけでもないし、時系列で並べた結果そうなっている、ということであって、あくまでもこちらはグループ自体が持つ性質と関連する事象がそうさせたというか。内容自体も(特に私のような「日向坂」になってからちゃんと彼女たちを追いかけ始めた人にとっては)充実度も高く、グループの紹介として十全に機能する映像になっていたと思います。

 他方、今回の「希望と絶望」がどのような映像であったか。描かれていたのは2019年12月のひなくりにおいて東京ドーム公演が告知された時期から2022年3月の東京ドーム公演+αまでがメインであり、基本的には時系列で進むものの、映っているものが1作目のそれとは全く異なっていました。予告で煽っていたように「裏側」とか「過酷な環境で倒れているメンバー」みたいな映像はあったものの、主としては「コロナ禍における活動がメンバーにもたらした影響」、「相次ぐメンバーの休業に対するメンバー間での受け止め方」、「プロダクション側と現場側の差異」、「東京ドームという集大成」といった目線で私は観ていました。例を挙げると、無観客配信ライブの本人たちの受け止め方が「会場にエネルギーを吸い取られる感覚」(佐々木美玲さん)、「延々と繰り返してきたリハを本番でもやっているみたい」(加藤史帆さん)といった言葉にも表れていたように、好ましいことばかりでは無かったのだな、という視点が得られたり。いち観客としては無観客配信ならではの演出があったり、そもそも「供給」自体が嬉しいのでどんな形でも構わない、という節はあったと思いますが、メンバー視点でのこういった語りはグループの現在地点を規定する上で重要な史料となります。

 そうした期間において監督がこれだけ長く密着して何千時間も素材があるからこそ、悪い言い方をすれば今回の映画だって「ストーリー仕立て」にすることはいくらでもできたはずで(コロナ禍を経て少しずつ乗り越えてきた、幾人もの休業を乗り越えた、2年に渡り延期になった東京ドームを迎えることができた、運営VSメンバーの構図、等)。でもそうしなかったのは、映画の冒頭と終盤で二度に渡り佐々木久美さんによって言及される、「物語消費」に対するレジスタンス的な態度がこの映画の骨子にあったからなのではないかと私は受け止めています。「私達のこの2年間を「物語」として消化してほしくない」、「映画を作ってくれている人にこんな事言うのもあれですけど、ストーリーにはされたくない」。細かい文言は覚えていないのでニュアンスですが、現代に於いてアイドル自身が「物語」的な消費に対して直接的な言及をしている例はあまり知らないので、結構踏み込んでるなあと素直に思いました。この「物語」に関しては別の章で触れるのでここでは仔細には書きませんが、監督の意志もここにこもっているのではないかなと受け止めています。(超主観)

 そして章タイトルである「ドキュメンタリー?映画?」について。率直な感想としては今作は「ドキュメンタリー」ではあるが「映画」としての強度や迫力には欠けていて、構図や構成はやはりテレビの延長としてのパワー以上のものはあまり感じられなかったなと。映像としてのパワーはあると思うんですよ、けれども「映画」だったかなあと。そういう点で見たときに、映画的なパワーを持っていたのは欅坂のドキュメンタリーであり、乃木坂ドキュメンタリーの1作目だったなあと思うわけです。欅坂のそれは平手友梨奈という「不在の中心」であったし、「悲しみの忘れ方」は母親の語りという視点を持ち込んでいる、そうした新しさ的な意味ではあまり見られなかったものの、この映画は主題としての「日向坂」自体がドラマチックな存在であるわけで、ある意味彼女らを映し出すことで目的自体が果たされてしまう面もあったのかもしれません。なんか映画館で「映画」を観た感覚が薄かったので、それがモヤモヤの一因だったのかな、と振り返ってみて思ったりしました。

 また、「アイドルドキュメンタリー」というデカい枠での話をしてみたときに、本作はどのような位置づけになるか。下記の香月さんの記事に照らして見ていきたいと思います。

 昨今の「アイドルドキュメンタリー」でもはや避けて通れないのは、高橋栄樹監督によるAKB48ドキュメンタリーの2作目『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』ではないかと思います。公開された2012年当時はAKBブーム全盛であり、当時高校生〜大学までのモラトリアム期間を過ごしていた自分にとってはその盛り上がりを肌で感じていた時代で、その折に出てきたこの映画のセンセーショナルさと言ったらもう。ちょうど10年前なんですね、、夢路空港で清宮レイちゃんは前田敦子さんと共演し、のちにレイちゃんはスター誕生ライブで『フライングゲット』をアクトする、というのもまた2022年。すみません、横道に逸れました。
 この高橋監督映画を機に、単なるファンムービーではない、「アイドル」という主題とその周りを取り巻く環境を素材とし、グループの現状や内実、世間での受容や観客との関係性を描き出していく作品群が生まれた、という理解でいます。なので、そういう意味では「希望と絶望」もまたこの文脈に乗っており、竹中監督なりの被写体との距離感と目線により生まれた映像作品と言えます。「アイドル」を映し出すことで「アイドルとは何か?」を問い直す。そうした効能を昨今の「アイドルドキュメンタリー」の文脈では期待されている部分があると思います。

 ただしここで挙げたのはAKB系列、そして坂道グループのものであり、広く「アイドル」を見たときに上記ですらまさしく氷山の一角、業界構造的にはTop of Topの三角の中で起きていることである、というのもまた認識しておきたい点だとも思っています。「アイドル」という言葉は広いので運用する際には定義が必要だと思っていて、今回の場合は「女性アイドル、かつAKB・坂道文脈」だろうなと。男性アイドルではジャニーズ、またここ数年で盛り上がりを見せているオーディション番組出身グループ(JO1など)、女性アイドルでもBiSHなどのWACK系列を始めとする「地下」の文脈、大きく分けた四象限のうちの一つで”しかない”というか。

※ある時期以降はAKB系列と対をなす存在になったのがももクロだと思っていて、8月にももクロのドキュメンタリー映画がかかる様なのでそれも気になっています(奇しくもTBS系列制作)

 我々は見えているものから様々なものを受け取り、解釈し、時には議論しますが、それもまた「見えているものだけが全てではない」という当たり前ではあるがあまりにも重要なこの態度を今一度踏まえた上で臨む必要があるのかな、と思います。「アイドル」ってとても豊穣な「場」なんですよね、、

 本章を総括すると、「希望と絶望」は映像としての迫力や監督と撮影対象への距離感の変化により一層肉薄したものになっている点は伺えるが、映画的な喜びは薄かった。ただしそこに映されていた映像からは「物語」的消費に対する言及であったりコロナ禍における活動といった史料・批評的な価値を持つ素材があり、そうした点で高橋監督のAKBドキュメンタリーに端を発する「アイドルドキュメンタリー文脈」のいち作品として位置づけられる、そんな作品になっていたのではないかと。

2つの目線

 本作において監督より提示されていた目線は2つあると感じていて、それは①プロダクションへの目線、②物語消費への目線、です。以下それぞれについて言及していきます。

プロダクションへの目線

 先に断っておくと、ここでは運営およびメンバーも含めたプロダクションサイドの話をします。運営対メンバーという単純な構図でもないのではないかなあという部分もあり。

<5thしかたん期>
 本作の中盤、時期でいうと5thしかたん期からケヤフェス、全国ツアーを経て6thってか期に至るまでの2021年パートは、ファン目線から見ても煩悶とする期間だったなと感じます。しかたん期の加藤史帆さんの明らかに異常なまでの稼働率であったり、チアでの疲弊はリアルタイムで追っていてもヒシヒシと伝わってきていましたが、いざ密着映像として克明に描かれると、より一層堪えるな、、という。ラヴィット終わりに局の廊下で「撮れてしまった」加藤史帆さんの「心は元気だけど、元気だと思うんですけど、身体は元気じゃないです」「わかんなくなってきました」「家に帰りたいです」という言葉は、竹中監督が密着を重ねる上で溢れ出た加藤史帆さんからのSOSに近い言葉だったというか。その映像の直後にインタビューパートでも当時を思い出して涙する加藤史帆さんも含めて、かくもアイドル活動というものはこれほどまでに人を追い詰めてしまうのか、という点を提示していると思います。

 この時期のプロモーションは明らかにセンターである加藤史帆さんへの負担が大きく(一極集中していたといえる)、かつ作中で彼女が言うように「0 or 100」の人間であるからこそ自分を追い込んでしまい、佐々木久美さんが言うように「助けてあげたかったけど何もできなかった」という状況になっていたのだなと。この事態を機に6th以降はプロモーションのバランスを考慮するように方針が変わったと思うのですが、この時期に於いてはやはりバランスが偏っていたしそこに対して手を差し伸べられる運営側も、また運営側に対して助けを求めるというメンバー側のコミュニケーションもうまくいっておらず、なんというか切なかったですね、、

<ケヤフェス2021>
 そしてケヤフェス。本作の象徴的なシーンである「叫び」はここにあります。個人的にはケヤフェスは続いてほしい派(ルーツを確認する場・聖地としての機能、メンバー間交流、未来においてはクリエイティブ面での交流なども期待したい)で、ケヤフェスそのものに対し思うところある人はたくさんいるとは思いますが、私自身のスタンスとしてはこんな感じです。改善の余地はありありだけどな!!!!!!!!

 とはいえ、初年度であった2021年のケヤフェス、とくにDAY2の日向坂1日目は炎天下の昼帯ライブであり、いかに過酷であったかというのは本作で幾度となく描写されていますし、メンバー間でも意識の差というか臨むスタンスの違いだったりは富田鈴花さんや渡邉美穂さんがインタビューで答えていたように、存在していたんじゃないかと思われました。そうした環境下でもなんとかやりきった、と思っていたところでの例の「がむしゃらさが足りない」「誰跳べで初めて感動しなかった」というスタッフ側からの言葉。松田好花さんの率直なリアクションが印象的でした。それを受けた翌日であるDAY3(合同日)の円陣では佐々木久美さんが「昨日みたいなこと言わせないように!!!!!」という言葉でメンバー一同奮起します。同じ誰跳べでもみんないい表情してたなほんとに…(大きく表情を抜かれていたのは齊藤京子さん、影山優佳さん、濱岸ひよりさん、松田好花さん、上村ひなのさん、プラス佐々木久美さんの煽りだったと思います)(記憶違いならすみません)。

 しかし、3日目終わりの運営陣(映像で話していたのはCRE8BOYさん??)からの言葉は彼女らの頑張りと手応えからは乖離していた「もっと歌って下さい、もっと踊って下さい。いまのままじゃ全然小さい」だとか「体力つけましょう」といった発言で、おそらく納得いっていないであろう表情と目をしていた佐々木美玲さんや齊藤京子さんが映ったようにメンバーの中で疑問符が生まれ、その後の「叫び」のシーンへと繋がっていました。
 この部分を見たときの率直な感想は運営に対する「何言うてんねんお前」だったし、後のツアー初日後の今野さんの言葉も同じ感想ではあったものの、言われたあとのアクションとしての加藤史帆さん、高本彩花さん、佐々木久美さんによる「叫び」は、今作の中で随一の映画的強度を持つ場面だったのかなと思います。この「叫び」はメンバーの一体感の方向付けとして機能し、のちのツアーへの足がかりになったのだろうなと。そしてこのライブにより、明確な運営とメンバー間での差異、ここを共通課題として認識したのがこのケヤフェスであったのかなと感じています。

<全国ツアー>
 そして全国ツアー。セトリとその情報伝達の構造に疑問を呈する高本彩花さんの発言などにもあったように、また数々のメンバーが口々に唱える「キツかった」という声にも代表されるように、相当数のメンバーが余裕のない状態だった時期であろうことは想像に難くありません。私自身昨年のツアーは初日の広島公演と福岡公演に行っていたのですが、その2公演だけでも言い方はアレですけどテコ入れは感じたし、パフォーマンス面での揺らぎと練度については消化不良な部分も持っていたので、あーこのときこうなっていたのか、という神経衰弱のカードめくりみたいな感覚でした。渡邉美穂さんの初日後のインタビューで話していた「「悪い空気」がどうしても入ってきてしまうのでそれを取っ払いたい」のように、ケヤフェス時期から続いているメンバー間での「一つになっていない」感覚がこのツアーにおいても課題となっていたと思われます。

 ただ、このツアーを重ねていくにつれて変化していった点としては、「自分たちが表現者としてどうしたいか」と言う点でメンバーとしての総意を集約して運営と双方向のコミュニケーションを行うようになったところにありました。「みんながみんな口々に言ったら文句になるけど、まとめてスタッフの方に(私とかが代表して)伝えることでセットリストとかを変えてもらったり」といったニュアンスの言葉を佐々木久美さんが発言されていたように思うのですが、これまで構造的に上意下達のようになっていたコミュニケーション構造がこのときフラットになったというか、同じステージを創る関係として、互いにプロとしての矜持を明確に持ってぶつかる(いい意味で)になったのがこのツアーを経ての成長部分だったと思います。「がむしゃらに与えられたハードルを乗り越える」フェーズから、「目の前の壁や課題に対してどうアプローチするかを含めて模索する」フェーズへの移行というか。なので東京ドームでは演出やメンバー、スタッフ陣ともに一体感を持って終えられたライブだったと思うので、精神的な意味での日向坂2.0の正確な始まりとしてはツアー終盤→7th製作期間あたりだったんだろうなと。この時期の変化をツアーを終えたタイミングでインタビューに答えていたTAKAHIROさんは「みんなの焦点がまたひとつに合い始めている」「お客さんとの真の意味でのコミュニケーションがまた生まれている」という旨の発言をされていたと記憶していて、ドームに向けてリビルドされていくグループの姿を的確に捉えているなあと感じました。

 上記の点から「プロダクションへの目線」についてまとめると、5th期間は明らかにメンバーのキャパをオーバーする仕事の割り振り方でありそこをボロボロになるまでなんとかできなかったのは運営側の落ち度ではあるが、一方でメンバー側からの運営へのヘルプの上げ方というかコミュニケーションパスがこの時期はうまく形成されていなかったことも事実で、「チーム日向坂」として課題を残す期間であったなと思います。そこから、ケヤフェスでのパフォーマンスに対する自分たちの感触と「大人」たちの受け取り方の違い、伝えられた言葉への感情を彼女らは「叫び」として表出していました。その後迎えたツアーでも一体感を中々生み出せない中、メンバー間での意見集約と運営への働きかけというコミュニケーションパスが形成され、これにより「チーム日向坂」として同じ方向と焦点を合わせることの第一歩にようやく立てた、というのが2021年だったのではないかなと思います。「チーム日向坂」としての苦難の一年だったのかなと。

※こんな書き方してますけど今野さんの言葉は履き違えてるなあと思ってますしあの炎天下での体力云々はナンセンスで言い方あっただろと思ってます

物語消費への目線

 本作で一番考えたのがこのことです。そして答えが出ていない部分でもあります。物語消費というか、この映画で映っていることが全てではないということは認識しておきたい、という感覚ですかね。いったん「物語消費」については以下の文書を参考にしてみたいと思います。

https://miyazaki-mu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1417&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1

 上記は梅津顕一郎氏による「「物語消費」概念の再考 ~ナラティブとサーガをめぐって~」という文章です。一部引用します。

大塚によれば、「物語消費」とは、商品そのもの ( の価値 )、すなわち機能性、使いで としての価値の消費でもなければ、記号的価値の消費を通じた差異化でもなく、商品の価値の背 後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費される状況のことである。

梅津顕一郎,「物語消費」概念の再考 ~ナラティブとサーガをめぐって~」,
2022,宮崎公立大学人文学部紀要 第 29 巻 第 1 号,p193 - 202,2022年7月16日最終アクセス

 ここでいう背後にある「物語」を日向坂というグループに見出したとき、それは「一本の欅から」であるし、「けやき坂→日向坂への改名」であるし、あるいは「ハッピーオーラ」、「約束の卵」に相当しているでしょう。
ただしこうした概念や事象については公式から提示された概念あるいはワードであり、この部分に関してはどちらかというと「コンセプト」的な受け取りのように思います。

 ここで佐々木久美さんの言葉をもう一度振り返ってみます。

「私達のこの2年間を「物語」として消化してほしくない」
「映画を作ってくれている人にこんな事言うのもあれですけど、ストーリーにはされたくない」

映画冒頭と終盤のインタビューにおける佐々木久美さんの発言より

 この2年間とはすなわちコロナ禍およびその後に連なるなかなかうまく行かなかったこの2年間であり、ここに対して「辛いこともあったけど頑張って乗り越えて「約束の地」にたどり着いてよかったね」としてほしくない、というか一種の牽制の意味合いを私は覚えていました。ファンは無邪気に彼女らの活動や発言、その他様々な事象を繋げながら継承だとかシンメだとかフォーメーション、選抜、その他の事象にブチ上がっていますが、「無闇矢鱈な物語化」って果たして健全なのかな?というか。もちろん私だって乃木坂5期生の『絶望の一秒前』がBELLRING少女ハートの『asthma』だ!みたいな怪文書を以前書いたりしていましたけど、それだって物語化していないかと言われればそんなことはないだろうし、という、いわば、いや寧ろアイドルファンとしての眼差しは「物語化」を避けられないという観点のもと、その物語がどのように対象(今回では日向坂46)に投げかけられているかを考えること、自覚することこそが重要なのではないか、と思います。

 観客って時に残酷ですよね、というのは欅坂ドキュメンタリーにおいてボロボロになりながらもステージに送り出されて『角を曲がる』を披露する平手友梨奈さんとそれにぶち上がる観客の構図からも感じましたけど、本作における「おひさま」に対しては終始肯定的な描写というか(そりゃファンムービーとすればそれまでだが)、観客への眼差しはあんまり感じられなかった気はしています。「おひさま」に関しては次章でまたぐるぐる考えます。

 こうした点については竹中監督は佐々木久美さんの言葉に仮託させている構図であり、久美さんの負担大きすぎない?と思いつつ、そうすることでしか表せられなかった(かもしれない)ささやかな抵抗だったのだろうな、と思います。ある意味では監督が提示した「ストーリー」といいますか。

 本節をまとめると(まとまるのか?)、「アイドル」を眼差すうえでのファンの目線は「物語的消費」を完全に免れることは難しく、それ故に自らの眼差しがどういった性質のものであるか、それがもたらす影響などに自覚的であるか、こういった点を認識しておく必要がある、と私は感じましたが、それを佐々木久美さんの言葉によってのみ表現するのは若干酷では?とも思いました。(もっと作品として観客に迫ってよかったのにな)

「おひさま」

 日向坂のみんなはファンのことを「おひさま」と呼んでくれる、そして事あるごとに感謝の意を伝えてくれています。しかしこの「おひさま」というものにモニョっている自分がいます。なんでだろう、というのがこの章です。本作から付随して考えたことなので、厳密には映画の感想じゃないかもですけど、それでも書き残しておきたいので書いておきます。

・果たして「照らしている」か?
メンバーこそが太陽じゃないか?というか。メンバーの、あるいはスタッフも含めた皆さんのおかげで我々は元気をもらっており、生きる活力を日々得ているけれど、それはみんなが魅力的であるからで、「照らしている」という意識なんて毛頭ないからこそ、??という感覚です。皆さん(日向坂のみんな)のおかげで生きていますよあたしゃ。

・「おひさま」はファンダムか?
この辺も難しいですよね、ファンの総称ではあるけど、ファンダムというほどには総意があるわけでもなく。ファンダムに関しては下記の記事を参照下さい。

上記の記事でいうファンダムには現状の「おひさま」は厳密には重なってはいないものの、連帯がときに生む危険性であったり、「良きファンダム」であろうとすることだったりとか、いちファンとしてこうありたい/こうなってはいけないを都度都度見直しながら生きていきたいと個人的には上記を読んで感じましたね、、

おわりに

 とりとめもなく、また本作内の描写や良かったところとかには全然触れずにここまで書いてきましたけど、映画をこれまで3回観て感じたことはだいたいこのような内容で固まっていたので今回このような形で書いてみました。1万字超えていた、、、
 この記事を書いている7月17日時点ではすでに映画の内容は過去のことであり、次なる目標として加藤史帆さんが掲げた「国立競技場」に「音楽の日」で立っていたように、NEXT STAGEに向けてあゆみを始めています。週明けにはケヤフェスがすぐそこにまで!8月には4期生も加入予定で爆進を続ける日向坂46という存在を知る上で、本作は「知っておくべきこと」であったと同時に、これらを受け止め、咀嚼した上で現在地点の日向坂46を見届ける、ということこそが、映画を観たいちオタクとしてできることなのかな、と感じました。わーわー書きましたが観れてよかったです。感謝。

※以下は余談です

#余計な事まで

という体のいろんなメモです。良かった点、面白かった点、全然関係ない点、思ったこと、等。

・???「照らしてやれよ!!!照らしてやれって!!!!」
・ドーム1日目のセンターモニター爆速早送りOverture映像もちらっと映ってた
・かとしは魔法少女だよ、傷ついても自分を犠牲にしてまでも仲間を、活動を、突っ走ろうとしてしまう
・美穂が卒業することを告げる時のメンバーみんなの顔は、事前に知っていたであろう人、察知してたであろう人、受け止めている人、とがいたと思うけど皆共通して「そうだよね」という顔をしていたように見えた
・道を作っていくこと自体が日向坂なんだな
・小坂さんのドーム後インタビューで、戻ってきたいと思えたこと、「こさかなおかえり」を見て思い出し泣きしそうになっていたこと、何というか本当にありがとうね、の気持ち
・様々な場面で駆け寄る、支える、そばにいる、叫ぶ彩姉さん
・髙橋=アツい女=未来虹。ひな誕祭ドーム1日目で「みんなが菜緒さんを待ってる」と肩を抱くのかっこよすぎる
・「僕なんか」のフォーメーション、殿(しんがり)にこさかなだけど、両脇のW佐々木、2列目真ん中のとしきょん、最奥真ん中に美穂がいるのであれは今更ながらだけどVの陣形じゃん
・影ちゃんの復帰直後に久美さんからビブス贈呈式みたいにしてたやつ良かった。その後のジャンプはクリスチアーノ・ロナウドのピッチ入場のそれ
・ドームの初現地リハで会場に足を踏み入れる時に、丹生ちゃんが鞄として持ってたのは銀色のビニール袋だった
・ドーム開演直前になっちょが久美さんに「最高のキャプテンだよ!」って言ったところで泣く
・パンフの紙質なんとかしてくれ

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