読書感想文 『モモ』 ミヒャエル・エンデ
※ネタバレ注意
あらすじ
どこからか来た少女モモが町はずれの円形舞台跡に住み込む。
町の皆はモモに食べ物をもってきて楽しく暮らしていた。
モモは特別な能力は何も持っていない、しかし代わりに相手の話しをよく聞いた。
そうすると、皆は自分の中からとてもいい考えが浮かんでくるのだった。
しかし、そんな楽しい時間は長く続かない。
どこからともなく現れた「時間泥棒」によって人々は毎日忙しなく生きてしまう様になっていた。
そんな異常事態気が付いたモモと親友の二人は「時間泥棒」を倒すことにした。
モモの特別じゃない特別な能力
モモは円形舞台跡に住んでいる。
そして人々の話しを黙って聞く。
そこから私はまるでモモがソクラテスのようだと感じた。
ソクラテスはなにか特別な知識があるわけではない。しかし、自分が何を知らないのかを良く知っている。
モモもそうだろう。
知った顔で人にアドバイスするのではなく黙って聞いている。
本来その人が持っている能力を引き出す力だけならソクラテス以上だろう。
時間の使い方が分かっていない。
皆は果たして本当に正しい時間の使い方がわかっているのだろうか。
作中で時間泥棒に「友達と遊んでいる時間」「ペットと遊んでいる時間」「母と会っている時間」それらを無駄と切り捨てる。
単純にそんなことを投げかけられたらそんなことはないと言い切れるだろう。
しかし、それぞれを〇〇時間〇〇分と計算され、自分に残されている時間を〇〇時間〇〇分と言われると途端に不安になってしまう。
私も不安になってしまうだろう。
それぞれ何のために使っているのかと理解していないからだろう。
しかしモモは違う。
モモは理解できないことはとことん考える。
無駄な時間はないのだ。
ミヒャエル・エンデと仏教
作中、時間の花というものが現れる。
泥沼で美しい華が咲いては散って、咲いては散っていく。
それが時間の源だという。
あまりにも仏教の因果具時の価値観に似ている。
泥中の蓮は花と同時に種が出来る。
それから現在の行動が未来に通じるとされている。
また時間についてこのようななぞなぞを出している。
それも仏教の時間の観念によく似ている。
時間泥棒の脅威
時間泥棒は作中で誰かを物理的に誰かを傷つけない。
しかし、世界をもうすこしで手中に収めるところまでいく。
現実もそうなのだろう。
暴力は消して見えやすいものではない。
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