ぼくの日常のエッセイ(吉祥寺マックフルーリー)
少し肌寒い風が体の脇を通り抜ける。シャツを突き抜ける空気は、夏だというのにひどく冷たく、それだけで速度を上げるのを億劫にさせた。
ふとした時に甘いものが食べたくなる時はないだろうか?いや、甘いものに限らずとも、塩辛いもの、味が濃いもの、独特の臭みがあるもの…人にとって急に求めてしまう一品は様々であろう。
ぼくの場合は、と言い切ってしまうくらい格別に気に入っているものではないのだが。今日はふとしたきっかけでマックフルーリーのブラックサンダー味が食べたくなった。空きっ腹でもない。しばらく甘いものを食べていなかったわけでもない。それだと言うのに、どういうわけかぼくの腹は求めてしまったわけだ。
小雨がまばらにぼくの頬を打つ中ー傘をさすのに躊躇をするくらいには大降りでもなかったーひとり吉祥寺の暗い住宅街を歩いている。
殊更珍しいものが鎮座しているわけでも、主張の激しい相貌の人間が闊歩しているわけでもない道中も、ただひとり歩く時には一風変わった雰囲気でぼくを夜へ誘う。特別なことはなく、単に甘味に誘われて歩みを進めているだけなのだが。
考え事がずいぶん捗る。取り留めもないことを思考に留めておくことにも案外体力を使うのかもしれない。集中という体力である。
そういえば自分の親のことをなぜ、「お袋」や「親父」、「母さん」、「父さん」と呼ぶのだろう?
弟に「兄貴」と呼ばれることはあっても、弟を「弟」と呼ぶことがないのはなぜだろう?
本当に取り留めもない。暇は哲学者を生む、と唱えたものがいると聞くが、それを今まさにぼくが体現しているのかもしれない。
いつのまにか街の明るみと合流して、喧騒を覆う屋根の元をただ真っ直ぐに歩く。アーケードの入り口にある目的に向かってただ無心に脚を動かすのである。
ついにたどり着いた店の入り口は、通い慣れた大岡山の吹きさらしより何倍も小綺麗にしていて、この街の気品を表すようである。チェーンですら地域による格差の煽りを受けているようでそこから重要な何かが見て取れる気すらしてくる。十中八九、気のせいであるが。
マニュアルを読んでいるかのように丁寧な対応の店員ーこの店ではクルーと呼ぶべきかーに目的のフルーリーを注文する。ほんの2、3分もしない間に出てきたものを受け取り、のろのろと2階へ向かう。
駅の方まで一望できる、見晴らしの良い窓際の席でお目当ての氷菓、とは少し古風に過ぎるが、を口にし、ぼくは思うのだ。
冷えた身体はきっと今これを求めてはいないかもしれない、と。
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