(旧稿)テーマ読書録:京都学派の中国(1)

(2019年6月4日に書いた旧稿。結びの段落だけ少し手を加えた)


『中国への郷愁』(書籍の画像見つからず、作者で代用)
吉川幸次郎
河出市民文庫1951
(実際に読んだのは『吉川幸次郎全集』第二巻。全集は筑摩書房1968)

(自分が学問をしてきた経験からして、「全集」という言葉は、あまり親切な顔をしいないと思う。「全て集めた!どうだ、すごいだろ!」のようなドヤ顔や、一切を網羅したが故に、一部を読んで批判することを拒否するような高慢さがどうしても付きまとう。だから、私は吉川幸次郎という大学者の全集を語りたいのではなく、あくまで彼の『中国への郷愁』という本に心惹かれ、それが近くの図書館になかったから、仕方なく全集を借りてきたに過ぎない。以下引用したのはすべて全集第二巻からであり、『中国への郷愁』に収録されていない文章もある。)

世の中には、「お前生まれる場所を間違えただろ」とツッコみたくなるくらいに、他国の文化や歴史に共感し、それを身につけようとする人たちがいる。多くの場合、それはサブカルの一種か、あるいは西洋人が東洋に向ける好奇心程度のものであり、相手の文脈を軽視・無視した身勝手な好みであることが多い。しかし、こと日本人の中国に対する共感に関して言えば、様相はだいぶ異なってくる。どんなナショナリストでも認めざるを得ないほど、日本は中国からあまりに多くの影響を受けてきた。津田左右吉のように中国文化を悉に解読した上で、日本文化の独自性を主張することもできなくはないが、それでも、彼は中国を比較対象にしなければ、日本の独自性を確立させることができなかったのである。これだけの影響を前に、「相手の文脈を軽視・無視」することは、日本にとって原理的に不可能である。そのため、津田左右吉にしても、中国の文脈を無視しておらず、むしろそこに深く入り込み、限定することで、初めて中国から遠ざかり、日本とは何かを構想することができた。このいささかひねくれたやり方に対し、吉川幸次郎は、どこまでも素直に中国に近づこうとしたのである。

私は中国文明に接近するためには、せいぜい中国人と同じ生活にはいろうと思って勉強して来た。中国人とせいぜい同じ言語の生活をし、同じ感情の生活をしようとして来た。現代の中国人にはとてもおいつけないにしても、清朝人のそれと同じであろうとした。同僚たちは、より客観的な立場に立って科学的であろうとしたが、私はせいぜい中国人的であり、少なくとも清朝人的であることによって、みずからの心理を作り、それを分析することによって、科学を打ち立てようとした」(「日中諸子学釈疑」より)

こんなこと本当にできるのかと疑いたくなるが、少なくとも「同じ言語」という点で、吉川幸次郎は完璧にできている。調べた限りでは音声が見つからず、彼の中国語発音がどうなのかは不明だが、『知非集』という漢文集を出すほど、彼の書く中国語は完璧だ。京大出身の東大教授から聞いた話では、京大での授業中に、吉川が学生に向かって、「君たちの国はなっとらん。それに引き換え、私の国の立派なことといったら…」とぶちまけたという。当然、「君たちの国」は日本で、「私の国」は中国である。そんな骨の髄まで中国に染まった大学者が、「中国への郷愁」を語る、私が興味を持つのも当然だった。

ハードカバーの全集を手に取り、「中国への郷愁」のページを開くまで、私は「中国文明が自分と日本にどんな影響を与えたのかを書いたのかな」と予想していたが、凡人の私の予想は見事に外れた。吉川幸次郎にとって、中国は彼一人がノスタルジーに浸るような対象ではなく、より大きな、全人類的な課題に答えうる蓄積を持った文明として意識されていたのである。

いずれにしても、中国風な思索が、人類の故郷の一つであり、そこへの郷愁を、意識的無意識的に、いざのうものであることを、物語るものではあると考える

これは「中国への郷愁」の最後の一文だ。この短文において、吉川幸次郎は中国文化が「事物の斉一なるべき方向に確信をもつとともに、その斉一ならざる方向に、はなはだしく敏感であるのを、伝統とすると、観察する」と書き出し、その証拠として「理一分殊」ーー万物はすべて同じ「理」に基づき、各個体ではそれぞれの現れ方があるという思想ーーを持ち出した。そして、それをハクスレーの著作と比較し、西洋にも同様な考え方があるが、どちらかといえば「理」を方を重んじ、合一を追求するのに対し、「理一分殊」を体現した朱熹の思想は、「格物致知」の言葉が示すように、各個体を仔細に研究し、そこから大きな理に至ろうとするものだと力説したのだ。

吉川幸次郎が西洋の思想をどれだけ研究しているかはわからない。朱熹についても、彼の言っていることが正しいかどうか、大いに検討の余地があるだろう。だが、吉川幸次郎が書いたのは、学会誌に提出する論文ではない。大事なのは彼の結論が正しいかどうかではなく、「なぜこんなことを言うのか」ということである。

同じく『中国への郷愁』に収録された「中国人と法則」という短文は、こんな一文で結ばれている

現代の日本人は、法則が個物の上に立つことを忘れ勝ちであり、個物の価値に対しては、甚だしく冷淡である。これに対するなによりの良薬は、中国風の考え方に接することであると、私は固く信ずる。

この文章が書かれたのは1942年、まさに全体主義が日本を覆い尽くさんとする時代であり、そのなかで「現代の日本人」に疑問を呈し、個物の重要性を強調するというのは、並々ならぬ勇気を要することだったと思われる。ここの中国風の考え方に接すべきという結論の根拠になっているのは、やはり「理一分殊」の考え方であり、吉川幸次郎にとって、この考え方にあらわれている個物の尊重は、何にも増して大事なことだったのだろう。しかし、彼の勇気に敬服し、彼の学問を仰ぎ見る私でも、個物の尊重を中国の思想に求めることには、疑問を感じざるを得ない。朱熹がそんなことを言っているのかどうかという学問上の問題ではなく、残酷な現実が彼の理想を裏切るのを、私は知っているからだ。

上の文章から二十数年後、その裏切りは文化大革命という形でやってくる。吉川幸次郎はその驚くべき頭脳で、まだ中国共産党と国民党の内戦の行く末が不透明な時期に、中国の都市と農村の価値観の違いから出発し、共産党の勝利と、勝利した後の秩序を樹立する上での苦労を正確に予言してみせたが、そんな彼をもってしても、文革の状況を十全に理解することはできなかった。おそらく情報の過少に焦燥感を覚えながら、彼は次のように書いている。

大陸の最近の情勢は、たしかに大へん難解である。由来、革命というものは、いろいろと常識では思議すべからざる事態を、さしはさみ、生む。(中略)ただ今の大陸の革命では紅衛兵による人民裁判が行われているという。いずれもその時代の他の国の理性の理解になやむ事がらである。去年の春、中国作家代表団の団長として来日し、私も会談をもった老舎氏が、圧力にたえかねて自殺したという消息が、真実でないことを私はいのるが、真実であるとするならば、私を悲しませるに充分である。悲しみのなかには、現在における私の、あるいはわれわれの、理性の信頼するものが、裏切られたという要素がある。近代劇の開拓者である田漢氏には面識がないけれども、紅衛兵の大集会でつるしあげられたといううわさには、狐死して兔悲しむ思いさえないではない。」(「二つの不満」より)

この文章を書いた1967年、すでに耳順の齢を過ぎた吉川幸次郎は、「狐死して兔悲しむ」と書けるほど、同時代の中国の文化人にシンパシーを持っていた。それも彼が自身を中国の伝統のなかに置いていたからこそなせる業だろう。中国の文化人たちは、どこか冷めた目線で世間を眺め、嘲笑したり批判したり、ときには謳歌したりするけれど、結局はいつの時代も、翻弄される存在でしかない。文革中は、老舎のように死ぬか、沈従文のように徹底的に沈黙するか、さもなくば、郭沫若のように魂を売り渡すかしかない。そんな状況を前に、「理性の信頼するものが、裏切られた」と、震える手で書ける吉川は、良い意味でも悪い意味でも、ついに中国の文人になりきった。あくまで理性を奉る彼は、理性を押し流す狂気を、視野に収めることができなかったのである。

もちろん、吉川幸次郎を非難するつもりはない。むしろ、そのような中国人ーー吉川が思い描いた朱熹の世界観に生き、宋学の「天地のために心を立て、生民のために命を立て、往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という豪傑然とした気概を持った人間になれたことに、私は最大の敬意を払いたい。このような気概を持った京都の先賢たちは、近代以降の大学制度における専門職としての研究者というより、士大夫である。そのような気概は、時に日本の中国侵略を肯定してしまう内藤湖南のような思考も生み出してしまうが、それでも、今こんな人がいれば、それも日本ではなく、中国にいて、声を上げることができればーーと思う、今日この頃である。

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