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中国が世界に深く入り始めたとき(賀照田)

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賀照田 著
鈴木将久 訳
青土社2013

賀照田先生は中国の国家アカデミー、「中国社会科学院」に勤めている。文系学問では最高格のこの機構を、日本のメディアはよく「政府系シンクタンク」と呼ぶ。そうした側面はたしかに否定できないものの、そこに在籍する研究者が揃いも揃って御用学者というわけではない。なかでも人文学に限定すれば、「政府公認」というある種の特権的地位を利用し、彼らは一般市民がネットに書き込めば即座に削除されてしまうことを堂々と研究し、論文を発表していることが少なくない。賀照田先生も、その一人である。

ぼくがそんな賀先生に出会ったのは、2013年の3月、桜が蕾をつけ始めた東京駒場でのことだった。まだ大学院生だったぼくは、指導教官の依頼で春休みの集中講義に来られた賀先生を下宿先まで案内し、近くのファミレスで夕食をともにした。忙しくなるとすぐに知り合いのいないところに逃げたくなると話す賀先生は、もともとスケジュールに入っていた知り合いが大勢出席する予定の学会への参加さえも面倒くさがり、「なんとか私だけ出なくても良いことにしてくれないだろうか」と無茶な相談をぼくに持ちかけ、関係者を大いに困らせた。それを除けば、1ヶ月の滞在中の賀先生との交流は、陽光がいよいよ明るさを増し、風が芳しさを運び始める季節と同じくらい、気持ちのいいものだった。

滞在中の賀先生は、移動中終始大きなスーツケースを引いているか、大きなリュックを背負っていた。聞けば日本に30年以上前の『人民日報』を一年分まるごと持ってきたらしく、暇さえあればそれを読んでいるという。『人民日報』は中国共産党の機関紙であり、プロパガンダのメッカである。なぜそんなものを読むのかーー答えは数日後から始まった集中講義で明かされた。賀先生は1979年前後に中国の雑誌に寄せられた投書記事と、『人民日報』に掲載された無味乾燥な論評とを突き合わせて解読し、改革開放へとかじを切ったばかりの中国において若者がどのような不安と困惑を抱えていたのか、その不安に対し政権側はどのような返答をしたのかを見事に分析してみせ、「こんな研究のやり方もあるのか!」と、ぼくは目からウロコが落ちる思いがした。

2013年に刊行されたこの本には集中講義の内容が掲載されていないが(※)、賀先生の研究姿勢、ひいては思考全体を貫く立場は、この本の至るところに現れている。1990年代以降、西洋の理論の輸入が一大ブームとなった中国の学術界に対し、賀先生は「歴史の隔たりが大きい西洋を比較の対象とすれば、自己意識を獲得するのは極めて容易である」と理解を示す一方、「長い間それを続けると、主体の状態の動きが鈍くなる。主体の状態が鈍くなると、その結果、私たちの自我意識はますます粗雑になり、不正確になる。そうした悪循環の帰結は、主体の感受能力の喪失、精神の内奥を掘り下げる能力の喪失として現れる」と釘を刺す。すでにそうした能力の喪失状態に陥った知識人に対しては、彼らの研究・思考の成果に注目するのではなく、「彼らの具体的な学術・思想実践を貫いている認識論の『感覚』」を掘り下げ、麻痺状態に陥った知識人を批判すると同時に、現実に目を向けさせ、より切実感のある問いを提起しようとする。既存の理論に頼りすぎず、あくまでその時代を生きた人々の生の声を反映できるテキストや事件から思考を始めるーーこれこそが、賀先生の思考を貫く底流である。

そうした姿勢において、中国を捉える紋切り型の視座のすべてが批判の対象になる。共産党だから絶対にだめなどと思考停止に陥る思潮に対しても、「選挙制、多党制、議会制だけによって歴史を裁断することなく、歴史の展開の中で粘り強く問題を観察し、追求したときはじめて、私たちの属する国家権力の活動のあり方およびそれが現在のようになった原因を、ほんとうに認識することができる」ことを賀先生は呼びかける。このような思考は政権を弁護するための方便ではなく、「その認識を基礎として、現状を改善する現実的な可能性の在処を、真の意味で、観念や幻想によることなく見出すことができる」という、現状の改良を目指すために必要な作業として位置付けられるのである。

さらに、中国と世界の関係を見る際にも同様な姿勢が適用される。本書の表題にもなった論文「中国が世界に深く入り始めたとき」において、賀先生は近年の中国が諸外国といざこざが絶えないことについて、「多くの中国人の感覚では…相手の利益、国の尊厳、人格を十分に考慮している」という考えがあり、だからこそ「不愉快な国際経験に出会ったとき、深く困惑し、傷ついた重要な原因」となったことを指摘する。その結果、中国人や中国大陸の国家は、①宣伝をさらに強化し自分を理解してもらう、②国力をさらに発展させ影響力を強める、③不愉快な経験の背後には中国の成長を快く思わない敵対勢力がいる、という論理のもとで、さらなる行動を出ようとする。2012年に書かれた文章だが、この3つの論理は2020年の新型コロナ以降の中国の行動を驚くほど正確に描き出しているのである。しかし、そこで「だからその論理が間違っているんだ」と性急に中国のことを批判・否定しても意味がない。賀先生に言わせれば、真の問題は上記3つではなく、「いかにして異国社会において、自然に、気持ちよく、しかも相手の重視する生活感覚・意味感覚・社会的な感覚の脈絡を無視せず、侵害しないですむか」ということをめぐる思考が、中国には圧倒的に足りないことである。つまり、空間を異にする場所で生きる人々の生の現実に対する思考と反省が、時間を異にする中国国内の事情に対するときと同様に、欠落しているのである。

だから賀先生は、その欠落を少しでも埋めようとあのような集中講義をし、中国国内では若手学者と1950年代の中国の新聞記事や日記を読んだりして、あの時代の生の声を引き出そうとしている。これら地道な作業が、いつの日か中国や中国社会、特定の時代の中国人への正しい理解を開くことを信じながらーーそうした信念を持っているからこそ、賀先生は本書のほとんどすべての論文の最後で、「私は中国を信じている」「中国に明るい未来が」「我が民族のための思考したい」と、ともすれば空疎なスローガンのような言葉を繰り返し書くのである。

そうした「中国」へのこだわりを、前回の周恩来のそれと同一視することができなくはない。だが、周恩来においてどうなのかは知らないが、本書を読めばわかるように、賀先生においての「中国」は、間違いなく「中国ならざる他者」を前提としているのである。したがって、この本での決意表明は決して一国中心主義的な言葉ではない。むしろ、中国を正しく理解することで、「中国ならざる他者」との境界線が明らかになり、他者への理解がそこからようやく可能になる。その意味で、我が民族のために思考する言ったときの賀先生は、実はすでに世界のために思考をしているのである。

(※未掲載の理由は著者あとがきを参照されたい。また講義のベースになった論文の中国語原文はhttp://www.opentimes.cn/Abstract/1271.html)


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