周恩来:不倒翁波瀾の生涯(ディック・ウィルソン)
ディック・ウィルソン 著
田中恭子・立花丈平 訳
時事通信社1987
周恩来が学生時代を過ごした天津には、彼と彼の妻・鄧穎超の記念館がある。周夫妻の経歴や実際に使った日用品などが飾られ、外国人の見学者も多い人気スポットだ。実際に日本人おばさんをそこに案内した人の話によれば、高校で教師をしているその方は、周恩来の風流洒脱な写真を食い入るように眺め、「まあ、なんてすてきなお方!」と目をハートにしてメロメロになったという。写真だけで数十年後の外国人おばさんを虜にするとは、さすがは周総理、ぼくなどからすれば羨ましい限りである。
おそらく、生きている周恩来が目の前にいれば、大半の人はメロメロになるだろう。学生時代に演劇で妙齢の女性の役をこなすほど秀麗なる風貌に加え、彼はほかにも、火を付けるも消すも思いのままの話術、ナンバー2に上り詰めても数十年前と同じコップを使う質素な生活、睡眠時間3時間の激務を数十年に渡ってこなす体力と責任感、あげればきりがないほどの美談を併せ持つ、公私とも完璧な人物である。キッシンジャーほど辣腕な外交官をも骨抜きにしたのだから、我々庶民がその魅力に抗おうとするだけ無駄というものだ。中国の経済を文革期の混乱においても懸命に立て直そうとした実務家もたしかに周恩来の重要な側面だが、やはり彼を語る上でもっとも重要なのは、その人をひきつけてやまない魅力だろう。
その魅力というのは、毛沢東のようにカリスマ性から来るものではない。カリスマ性なるものは一歩間違えば毛沢東やヒットラーのような独裁者を生み出してしまうが、周恩来の魅力にはそのような激しさがない。周りの空気を柔らかくし、そこにいる人間全員を居心地良くさせ、いつの間にか自分の術中に引き込むのが周恩来である。よくいえば中国古風の君子そのものであり、悪く言えば究極の人たらしである。そして、どちらの場合も、本心は包み隠されたままだ。だからこそ、彼の魅力の裏に潜むのが果たしてどのような精神世界なのかについて、衆人が興味を抱き、そして困惑するのである。本書の著者ディック・ウィルソンもたった一回のインタビューで彼に魅了された口だが、外国から眺めることのできる彼はなんとか冷静さを保ち、周恩来に関する資料を20年に渡り収集しこの労作を書き上げた。彼に言わせれば、周恩来の魅力は後天的に身に着けた演技であり、中国の伝統文化からにじみ出た自然体ではなく、すべてが緻密に計算されたものだということになる。
だからといって、著者が周恩来に悪評を下すわけではない。ほぼ一生涯演技をし続けた周恩来は、なぜそこまでして自分のイメージにこだわり、他人を気持ちよくさせることに心を砕いたのか。戦前や戦中において、それは共産党の革命を成功させるためであり、戦後の新中国においては、諸外国との関係を好転させ安定した外部環境を作り、国内の混乱した情勢を少しでも正常に戻したかったためと著者は観察する。いわば、すべてはお国のためである。
そのような周恩来に、著者は極めて同情的である。そのことは、劉少奇、毛沢東に言及するときの著者の辛辣な筆致が、周恩来を語るときは打って変わって温かみを持つことからわかる。しかし、政治家という生き物を未成年の頃から全く信用していないぼくは、周恩来の行動の裏に権力への欲望がなかったとは思わない。それでも、周恩来が偉人だということに変わりはない。なぜなら、権力への欲望を感じさせないほどに彼の演技は完璧であり、一生演技で通したとすれば、それは文字通り政治家としての役割を全うしたことになるからだ。
おそらく、ぼくのような周恩来を直接自分の目で見ることのできない人間にとって、より重要なことは、彼が実際にどのような人間だったのかではなく、演技・本心のどちらでもいいから、彼の行動を支えたものが何だったのかを思考することである。「すべてはお国のため」とぼくは皮肉っぽく書いたが、なぜそこまで中国というものに身を捧げることができたのか。それを権力への欲望だけで片付けていいのだろうか。それとも周恩来は中国への確固たる信念や愛情を持っていたのか。そうだとすれば、彼をはじめとする中国共産党の初期のメンバーは、果たしてどのような中国を思い描いていたのか、そのことを考えていかなくてはならないだろう。
本書ではこうしたテーマに深入りしていないが、数か所示唆的な記述がある。たとえば、米ソが1959年に関係緩和に踏み切ったことをジャーナリストに問われた周恩来は、「妥協は第三世界の人民を売るものであってはなりません…我々は、世界中の人々が民族解放の権利をもつのか、あるいは何千年もの間奴隷であり続けるのかを決めねばなりません…この点に関しては、我々は決して妥協しません」と、強い調子でソ連への不満を表明した。それを聞き取ったジャーナリストは、周の発言を「中国の硬直性」として理解したが、ディック・ウィルソンはより周の内面に立ち入り、このように書いている。
「あるいは、これは、非ヨーロッパ文化の先頭に立つものとして、中国が自らに任じている役割といえるかもしれない。」
実に鋭い観察である。中華人民共和国建国直後はもちろんのこと、周恩来以上に実務的な鄧小平の時代でも、西洋かぶれの江沢民の時代でも、西洋と妥協しなかったのが中国だ。その姿勢は対立が再度先鋭化する恐れがある現在まで続いている。指導者たちを突き動かしているのは単なるイデオロギーではなく、権力への飽くなき欲望だけでもない。根底にあるのは、「中国5000年」などと表現されるような悠久なる文明から来る自身のアイデンティティへの固執であり、それと表裏する舶来の価値観への本能的な反発である。だからこそ、周恩来のようにキリスト教徒の教育者が創設した高校に通っても、日本やフランスに留学しても、西洋由来のマルクス主義に心酔しても、「中国なるもの」へのこだわりは終身捨てがたいのである。そのこだわりの強さは、理想のためなら国を破壊しても構わない毛沢東以上だったのだろう。
注意しなければならないのは、そうしたこだわりはなにも周恩来一人や共産党の上層部の限った話ではないということだ。周がよく引用する格言に、「舵手は波を利用して船を導かなくてはならない。さもないと波に沈められてしまう」というのがある。波は中国を取り囲む諸環境の全体を指すと思われるが、そのなかの重要な一つが、中国の民意である。独裁国家に民意などないと考えてはならない。大衆が正当な選挙によって民意を表出できないため、為政者はあの手この手を使って民意を正確に把握し、それをどこに誘導するのかを日々考えておかなければならない。その意味では、むしろ独裁国家の指導者のほうが民意をより理解しているとさえ言える。周恩来に当てはめれば、「中国なるもの」へのこだわりは彼が感じ取った民意でもあり、その民意は今も変わらず続いているのである。
ただし、少なくともぼくは、民意があるからと言って排外に走ったり、異なる声を暴力的に封じ込めるのを容認できない。国民国家の民意以上に、人間として尊重し、体現すべき価値があると考えるためだ。だが、まさにここで重要な問題が浮上してくる。そのような「価値」は、本当に存在するのだろうか。「中国特色社会主義」などの文言が示すように、今の中国は何事にも「中国の」という限定をつけ、西洋が普遍的な価値観として掲げる「民主」「人権」などを「西洋の一方的な普遍性」として反発する。その論調は、毛沢東・周恩来の時代から変わらないものである。では、果たして中国の主張を論破できるほど確固たる価値、洋の東西や国家の違いを超えた普遍性は存在するのだろうか。それとも、すべては人間が形成するコミュニティのなかで育まれた価値観であり、コミュニティを抜きにしてはなにも語れないのか。
そのことを思考するきっかけとして、次回からは現代中国と世界の関係を思索した学者の著書を読んでみたい。