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やむにやまれぬ吉田松陰~下田の企て①

吉田松陰、坂本龍馬の名前が教科書から消えるとか消えないとか、あるようですが、それはひとまず置いておき、土砂降りの梅雨の中、吉田松陰にゆかりのある開国の街、下田を歩いてきました。やむにやまれぬ松陰先生のお話と共に、伊豆半島屈指の歴史の街を綴ってみます。

黒船電車(リゾート21)で下田へ

久しぶりの一泊旅行、本日は熱海から今日の旅に相応しく「黒船電車」なるものに乗ります。こちらは「リゾート21」という車両がいつの間にか、コンセプト列車に様変わりして、「黒船電車」と「キンメ電車」として運行されています。

黒船電車 下田開港170周年!

普通乗車券で乗れて、かつ先頭車両はロマンスカー並みの展望の良さ。座席もユニークで海に面した席は、車窓に向かってのロングシート。

車内には、黒船来航にまつわる掲示物まで

熱海駅8:26出発、車窓左には、熱海の市街地。土砂ぶりの雨で、海岸沿いを走っても、初島も、伊豆七島もお目にかかれず…。

不動トンネルを抜けると、伊豆多賀、網代の湾が広がる

熱海から伊東まではJR伊東線(16.9km)ですが、全線の38%がトンネル。最長は新宇佐美トンネルの2,985m。伊東からは私鉄の伊豆急行、伊豆急下田までは、鈍行で1時間15分程度。展望席からの眺めは初めてですが、改めて切通しの多いこと。普通の車窓では気づかない発見があります。
「伊東」の次の駅「南伊東」からは25‰で、ぐんぐん登っていきますが、これも展望席からだと登りを実感できます。

川奈を過ぎて、高さ・長さ共に最も大きい赤入洞あかりゅうどう橋梁を渡ります!
湯けむりもくもくの「伊豆熱川」 観光客がどっと乗ってきます

片瀬白田から伊豆稲取の間は、伊豆急行内で最も有名な絶景スポット。窓を開ければ波のしぶきが掛かりそうな海岸沿いをひた走ります。

眺めが良ければ、伊豆七島の三宅島まで眺められる

河津を過ぎて、伊豆急行内、最長のトンネルを抜ければ、稲梓いなずさ、その次が蓮台寺。こちらで下車。

黒船電車、伊豆急らしい車両で、最高でした~

蓮台寺温泉~吉田松陰寓寄処ぐうきどころ

蓮台寺、伊豆急下田の一駅手前ですが、意外にも結構な人数が下車。蓮台寺温泉のお客さんではなさそう。

駅は無人駅ですが、駅舎にカフェが入っています

目指すは、吉田松陰偶奇処。
ここを訪れたのは吉田松陰25歳の時。ことの経緯は以下。
前年に、松陰が江戸に滞在している時に黒船が現れる。このとき松陰も浦賀に馳せ参じ、黒船を目の当たりにする。幕府はのっぴきならない状況で、右往左往、ペリーは「開国せよ」のメッセージと共に、条約の締結を提示し、来年また来ると言い残して去る。
清はアヘン戦争で敗れたことを知っていた松陰は、このままでは日本も同じ運命になる、なんとかせねばと、江戸で門を叩いていたのは、佐久間象山。
佐久間象山は、日本の国防のために西洋に有能な人材を送り、外国の兵器や兵制を学ぶべきだと考えていた。

翌年、約束通り、ペリー再び浦賀沖に現れ、幕府はあっさり和親条約に調印。これに失望した松陰は、象山の影響もあり、下田に寄留しているペリーの艦隊に乗り込んで、密航しようと計画をするのでした。いつ乗り込もうかと機を伺いながら、松陰が隠れていた場所がこの地。

こちらは、築200年 ほぼ当時のまま 松下村塾に勝るとも劣らない史跡

吉田松陰、皮膚病を患っており、この蓮台寺を訪ね、この家屋の向かいにある外湯(共同浴場)に松陰が入っていたところ、この家屋の主である村山行馬郎ぎょうまろうという医者が声をかける。

小さな掘っ立て小屋が外湯
観光案内にも地図にも載っていない外湯 現役です
鍵かかってました 地元の方しか使えないらしい

事情を聞けば、長州から来た浪人。「何処へ行っても、(宿に)泊めてくれない故、今晩はこの湯で夜を明かすつもりだ」と。家に招いた村山のお医者さんは松陰と話す中で、ペリーの船に乗ろうとしていることを知り、それはえらいことだと、かくまったのでした。
玄関右には、松陰が浸かったお風呂があります。

まだお湯を張れば、入れそうな浴槽

薄暗い広間の両端には、吉田松陰の記した留魂録の写本や、当時に使用していたであろう品々が並びます。アメリカに渡りたい旨を綴った「投夷書」はこの屋敷で書かれたのでした。

アメリカ兵に渡した「投夷書」
松陰先生隠れの間

ここに吉田松陰が十日あまり滞在していたということで、松陰が居たのは新暦では4月末。窓の外には緑が生い茂り、こんな感じで外を眺めながら、どんな心境で過ごしたのか…。

階段を上がると、八畳一間の部屋

この家には、当時、代々語り継がれており、この医者の息子が、奉行所に勤めていたことから、逐一、下田の港の様子も父に告げながら、娘の「まつ」が松陰に食事を出す話などが残されている。

こんな小冊子を見れるのも、現地を訪ねてこそ

娘「まつ」によれば、若いのに大層世間の事を知っておられた。
給仕の折には、
「この日本の区には小さくて野蛮な国で仕様がないから、唐人と交際するが、善いか悪いか、行って見たい。よかったら、交易もしたい」と言っておられたと。
ということで、かつて松下村塾には二度行きましたが、そのときよりも、吉田松陰の気概を感じるひと時となりました。やむにやまれぬ吉田松陰!

外遊の意気揚々 

お風呂はここ!「金谷旅館」~千人風呂

さて、吉田松陰の浸かった外湯には入れませんが、この蓮台寺温泉から徒歩10分くらいのところに伊豆の旅館の中でも屈指の名湯があります。

「日本一の総檜大浴場」を謳う 
創業1867年(慶応3年)数寄屋造りの客室がずらりと並ぶ老舗

本当は泊まりたかったですが、1名では、和室を取れませんでした。早速、千人風呂に向かいます。まず驚いたのは広さ、こちらは予想以上。秘湯、法師温泉の長寿館の大浴場よりも大きいでしょう。千人風呂の外には露天風呂もあり。

玄関からすぐのところに入口
木造だけど円形の屋根、ほとんどプールのような広さ(金谷旅館HPより)
三体ある伊豆石の彫刻も素晴らしい(金谷旅館HPより)

千人風呂は混浴ですが、女性の大浴場も大きそうで、貸切風呂もあります。泉温はそこまで熱くなく、とにかく居心地がよいので、もうずっと浸かってしまいました。肌にも柔らかで、吉田松陰が癒されたのも納得。

泉質は弱アルカリ性の単純泉
次来る時には、こちらで一泊したい

開国の街「下田」の歴史散策

蓮台寺から一駅、寝姿山を左に眺めて、終点「伊豆急下田」。

右は「踊り子」号、広々とした屋根付きのホームは昔と変わらず

土砂ぶりの雨の中、まず「下田開国博物館」を訪ねます。下田の歴史を知るには、ここに立ち寄るのが一番。下田開港170周年ということで、特別展も開催。

なまこ壁の施設 私設の博物館のようで、手作り感はありますが、展示品は、とにかく豊富

アメリカと日本の交渉で、アメリカは多くの寄港地の開港を求めましたが、日本が実際に開港した港は横浜でも神戸でもなく、箱館と下田の二つだけ。1860年代の日本はこの二つの港をもって、西洋人が日本を知るようになるのでした。なので、下田が「開国の街」ということになります。

初めて見た西洋婦人 「丹花の唇、白雪の膚、衆人眼を驚かし、魂飛ばす」見聞録より
カラフルな挿絵が沢山入った「ペリーの日本遠征記」 
「ペリーの顔さまざま」鬼みたいなのはともかく、それなりに似てる?!(左下の写真が実際)

ペリー来航の直後に来ていたロシアのプチャーチン提督率いるディアナ号もこの下田を訪れています。ここで安政の大地震で津波の被害に会うのでした。

ディアナ号の遺品のラッパ 他にもプチャーチン提督の品々も陳列

開国記念館から歩いてすぐのところに「了仙寺」があります。ここはペリー御一行の応接所となり、さらに日米和親条約の下田追加条約が締結された場所でもあります。

国定史跡 「了仙寺」
本堂は昔と変わらず 境内の広さは少し誇張されて書かれているらしい

了仙寺の山門の目の前には「黒船ミュージアム」こちらは小さな施設ですが、黒船来航時の下田の様子を知ることが出来ます。異文化交流の先駆けであり、日本側も、アメリカ側も興味津々で、様々な絵や文章、写真も残しているのが、面白い。

「MoBS」 Museum of Black Ship 入口 新感覚のミュージアム
唐人お吉の遺品  三味線?に、愛用の手鏡

この場所から、海に至るまでは、ペリーロードと呼ばれており、ただ観光のためのネーミングかと思いきや、ペリー御一行は下田来航の時には、下田に上陸して寝泊まりしたのではなく、基本は船上泊だったようで、ペリーも当然船で寝泊まり。交渉の時に了仙寺と行き来するときにはこの道を通ったということで、まさに本物のペリーロードなのでした。

古い街並みを残すペリーロード
昭和初期の写真 昔から繁華街だった模様
ペリーロードの山側の中腹には「長楽寺」 こちらでは日露和親条約が締結 
この時に、北方領土の境界線もここで決まる
ペリーロードの突き当りには旧澤村邸 なまこ壁の立派な旧家 内部も無料で見学できる
イギリス製の大砲 当時から下田にあったかは不明

ペリー艦隊上陸の地

しばらく歩くと開けて、海が見えてきます。数分で、ペリー上陸の地へ。黒船は下田の湾内に停泊、小舟でこちらから上陸です。

2004年にはジョージブッシュ大統領がこの地を訪れてます
ペリー上陸の地 上の写真と比べても、なんとなく面影は感じられます

下田港は、最盛期は「出船入船三千艘」とか言われ、家屋も1000軒、人口5000人と、江戸への物資を供給する中継の港として栄えていました。どうして、下田が開港の港として、選ばれたかは、明確な資料はないようですが、江川太郎左衛門英龍が、推したのではないかと。浦賀や横浜だと江戸に近すぎる、万が一、内陸から攻められても、伊豆の山、箱根があるので、国防的にも問題なさそうというのが理由だったようです。
ここから、下田の港を徒歩で半周。
雨は止みましたが、湾内は濁流の影響で茶褐色。

左に下田富士、右が寝姿山 どちらもマグマが冷えてできた「火山の根」の山
下田市街の唯一の外湯「昭和湯」こちらは温泉で、蓮台寺からの引湯しているらしい
今回も、時間切れで入れず…

漁港としての下田港はあまり認識なかったですが、この街並みを見たら、かつては、結構水揚げもあったのではないか。房総の港町と似た景色です。

朝市もたっていたような雰囲気です
今はシャッター港ですが、かつては魚も売っていたのでしょう

もうお昼はとっくに過ぎてますが、道の駅まで歩いて、小休止。ずいぶん立派な施設で、こちらに、地魚回転寿司を発見!そこまでお腹は空いてませんが、少しだけ、腹ごしらえです。

地方の回転寿司は、地魚に限る!

ウメイロ、ホウボウと白身のおすすめの握りを頂き、キハダマグロも下田で獲れたということで、こちらも注文。いずれも、あっさりしたネタです。

アオダイ、オナガダイ、オゴダイにキハダ ノリの味噌汁が最高に美味しかった

さて、下田の港、ペリー「外海が近く、安全にアプローチでき、これ以上ない港」ということで、気に入ってもらえたようです。ペリーの艦隊が初めて下田に現れた時は軍艦7隻、見たことないスケールだったことでしょう。今は、こんな小型の観光船が下田の湾を遊覧しています。

静かな湾内 下田の追加条約の時には、日本人も黒船に招かれ、大宴会をやったとか

実際の黒船艦隊のフリーゲート艦(帆走できる蒸気船)は旗艦は2,415ton、300名も乗員おり、太平洋を縦横無尽に走り回っていたのだから、すごいもんです。
この後、史跡巡りは佳境に入り、本日の宿に向かいます。(つづく)

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