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勝海舟記念館と大田区黒湯
久しく温泉に浸かれずにいたので、温泉チャージのため、土曜半日散歩がてら、勝海舟記念館を経て、大田区黒湯を目指します。勝海舟が大田区の黒湯に浸かったかどうかは不明。記念館はかねてから行ってみたかったところで、ようやく来館。
都会のオアシス「洗足池公園」
本日は、自由が丘から東急大井町線に乗り換え、「北千束駅」からのスタート。東急の中でも、大井町線、池上線はのんびりと住宅街を走り、駅も昔から変わらず、好きな路線です。
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園内の高台はうっそうとしていて、チョウにトンボに昆虫が舞っております。都心でもこういう公園はいくつかありますが、ここは、兎に角、昆虫が多い。
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小川の横はグランド。小川は大地の脇を流れていることになります。
少年野球と思いきや、外野を守っているのは全員ママさん。人数足りないのと、かなりちびっ子の多い野球団のようです。自分の子どもの頃には考えられない光景ですが…。
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洗足池をぐるり半周
ちょっと寄り道して、池の西側から南に半周の様子を見ます。池の脇に何やら均整の取れた馬の像「池月之像」とあります。
由来は下記の通り。
1180年、源頼朝が石橋山の合戦に敗れた後、鎌倉に向かう途中、このあたりに宿営。月夜の晩に、一頭の駿馬が陣営に現れ、そのいななく声は天地を震わすほど。家臣がこれを捕えて頼朝に献上した。場体はたくましく、青毛はさながら池に映る月光のように美しかった。これを池月と名付けて、頼朝の乗馬とした。
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ということで、平安末期、このあたり、海も普通に馬がいたのでしょうかね…。このあたりで、思い出したのは、司馬遼太郎の「街道をゆく:甲州街道」の一節。
道灌からさかのぼっ十一世紀のころの武蔵国の情景は、『更級日記』で想像できる。作者が、父につれられて少女のころ、この国を過ぎた時(1020年)の様子は、
「武蔵の国にきた。柴草が生い茂っているときいているその野も、いったいどこに柴草が群れているのか、よくわからない。それほどに葦や荻がたかだかと繁っていて、弓を持ち馬に騎った人に出会っても、ふりかえればもう草の向こうに消えているという具合である」~略~
「馬に騎りて弓持ちたる」という無名の騎人が、重要だろう。丈なす草のあいだに隠れて行ったこの草原の生活風俗を象徴する住人こそ、後世、日本を震撼せしめる坂東武者と化って歴史に登場するのである。
更級日記からの引用ですが、さすが司馬遼太郎の着眼、この後の展開は、馬を使いこなすのは大陸文化(朝鮮、モンゴル)の影響という想像力豊かな持論を披露。ご興味ある方はぜひどうぞ!ということで、寄り道、盲腸線から抜けねば…。
ということで、こんなところで、源頼朝にゆかりのある地があるとは。
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「勝海舟夫妻の墓所へ」
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勝海舟が洗足池やその周辺の風光を愛し、遺言によりこの地に葬られたとのこと。明治32年(1899年)77歳死去。
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そして、墓所の傍らには、勝海舟が西郷隆盛を弔うために、建てた留魂碑。表には西郷隆盛の「獄中感有り」の漢詩。西郷隆盛が国賊扱いされるのを払拭したいがために海舟が建てたのでした。記念碑、熱い!!
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裏には海舟の思いが綴られている
令和元年開館「勝海舟記念館」
勝海舟夫妻の墓所から徒歩1分で記念館。このネオ・ゴシック調の建物は「清明文庫」といい、昭和初期に勝海舟の功績を伝えるために造られたもので、こちらと併設した形で記念館はあります。
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勝海舟の「氷川清話」には、洗足池の別邸の記載がこんな感じで残されています。購入して間もない頃の様子で、本人はまだ行ってもいない。
洗足村の別荘は津田(仙:梅子の父)が勧めたから、二百五十両か幾らかで、安かつたから言ひ値のまゝ買求めて、そのまゝ元の持主を住ませて留守番をさせてあるのだ。持主はそれで自分の顔も立つし、臨時の収入もあつたので、大層喜んで大切に手入れをしてくれるよ。おれはまだ一度も行つては見ないが、だんだん四方の土地も売り込まれて今ではずいぶん大きい屋敷になって居る筈だ。門も拵へないでおいたら、或る人がいろいろ周旋してくれて、この頃は家もすこぶる立派になつて、景色はよし、空気も清潔だといふことだ。この頃は屋敷へ百合と馬鈴薯を植ゑさせて、万一の時の用意に、その収穫したのを丁寧に貯蔵させているのだ。
百合やじゃがいも植えて、有事に備えるとことは何とも海舟らしい。
さて、館内の方は、撮影OKの場所、禁止の場所とあり、勝海舟が愛用していた硯箱や航海で当時使用したコンパスなどの道具などの展示物が常設。さらに日本人が初めて太平洋を渡りアメリカ大陸へ渡った咸臨丸の公開時のCGは3方向の大画面で堪能でき、最近できた記念館ならではの視覚に訴える記念館です。
展示物の中で一番驚いたのは、男前の若かりし頃の勝海舟写真の原本があったこと。寄贈されたもので、手のひらに乗るくらいの小さな額の中に収められておりました。
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咸臨丸の到着先サンフランシスコにて撮影
勝海舟とキリスト教
勝海舟と言えば、江戸城無血開城に象徴される寿命が縮む談判の数々、銃で撃たれそうになったり、盗賊に切られそうになったりと死の谷を歩むような場面は両手に収まりません。このあたりは、晩年に多くを語っている氷川清話と記念館にお任せして、たまにはクリスチャンの矜持ということで、海舟とキリスト教を語ってみます。あまり彼の言葉としては直接的に残っていないのですが、幕府と新政府を取り持った功績と同じくらい、勝海舟のキリスト教理解は卓越しており、天の前に明らかな義があったと考えます。
幕府創設の長崎海軍伝習所で学んだ時のお雇い外国人は、オランダ人カッティンディーケ。まだキリスト教禁令の幕末だったので、あからさまにキリスト教の事は語れなかったかもしれませんが、札幌農学校のクラーク博士のように、篤い信仰を持っていたようで、彼の人とになりは勝海舟に影響を与えたようです。勝海舟は抜きん出た語学力があり、オランダ語の讃美歌を初めて日本語に訳したのも勝海舟。おそらく軍歌だと思って訳したのではないかと言われています。
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若い頃からこのような環境で学んだ海舟は、咸臨丸でサンフランシスコに行った時にも日曜は礼拝に誘われ、参加していたようで、こんな語りも…。
アー、西洋では、いつも礼賛堂(教会)へ行ったよ。大層、褒められたよ。世話をしてくれた親仁が極熱心だったから、その息子などと一処にいくとネ、ホーリー、ゴースト、ホーリー、ゴースト(神の霊よ)で固めて祈っているよ。
数あるエピソードでもう一つ紹介するなら、海舟壮年の時、米国からやって来たホイットニー一家を自分の屋敷に住まわせることになりました。このことがきっかけとなって海舟の三男、梅太郎は国際結婚。お嫁さんはホイットニー・クララといい、「クララの日記」というものを残しており、ここには晩年の海舟や勝家の様子が描かれています。
ある時、福沢諭吉が、「キリスト教というものは、他の点では善いかもしれないけど、親孝行のことはどうか知らぬ」と話したのに対して、海舟は「うちの隣にホイットニーというものが居るが、その兄妹が老いたる母を大事にするさまは、日本人に真似できようとは思われない」と答えたと。
クララの母アンナは、福音(聖書)を伝えることに熱心でしたが、49歳で亡くなります。青山霊園の墓地には、アンナの墓があり、正面には「骸化土、霊帰天」墓石の裏には「義人必由信而得生」と海舟の筆で記されているとのこと。
「骸化土、霊帰天」とは『ちり(肉体)は、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」という伝道の書の一節、
「義人必由信而得生」は『義人は信仰によって生きる』というパウロが語ったヘブル人への手紙の有名な一節になります。
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残念ながら、この一家は離別して、クララは米国に帰り、子育てをしますが、勝家は海舟の死後も、海舟の意志もあり、彼女たちの生活費を日本から米国に送り続けたそうです。
キリストの教えを直接教会で学ぶことは少なかったと思いますが、彼を取り巻く環境と篤い信徒との親交から、そのエキスを学んだのではないかと想像されます。彼の晩年の座右の書も、漢語聖書だったというのもアンナの墓碑に刻まれた言葉からも容易に想像できます。
再び洗足池湖畔
さて、記念館を出て、池上線、洗足池駅へ向かいます。途中、池の湖畔に大きな門構え。こちらには、日蓮上人が池の湖畔で腰を下ろし、松に袈裟をかけたという袈裟掛けの松があるとか。
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広重の名所江戸百景にも登場するくらいの松ですが、広重が描いた松の枝ぶりから見てもやはり、今のは後年のもの。初代も二代目も大層立派なものだったのでしょう。ココで日蓮上人が足を洗ったから「洗足」ともいわれるようになったそうです。
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こちらで息を吹き返し、洗足池駅到着。
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池上駅から銭湯「桜館」へ
池上駅、こちら、日蓮宗は池上本門寺の門前駅。昔ながらの駅舎を思い出していたら、高級デパートのようなエスカレーターを登ったと思えば、知らぬ間に、激変。門前駅は、リニューアルすると京都駅や長野駅のような、立派な柱に高い天井の駅になってしまうのでした。
池上本門寺は西郷どんと勝海舟が話し合った場でもありで、行きたいところですが、庭園「松涛園」が一般公開したときに行くことにします。
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駅から徒歩6分、南に向かって真っすぐ下り、住宅街の脇道を入ると、銭湯「桜館」が現れます。大田区は都内屈指の温泉区、銭湯の値段で、黒湯に浸かれるところがサイコーです。
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桜館、今回初めてでしたが、壱の湯と弐の湯があり、男女入れ替わりなのですが、湯舟も多様で、かつ広い。今回は壱の湯でしたが、ジェット風呂、天然温泉(黒湯)、二階にはサウナ(+100円というお値打ち価格)、三階には夜空を眺められる露天風呂までありました。
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ということで、お風呂は1階から3階まで予想を超えた温泉施設。さらには、二階に上がれば、飲食フロアがあり、半ばスナック的な空間あり、ゲームコーナーあり、漫画本まで置いてあるという、小ワンダーランドなのでした。時間あったら、お風呂とここで2,3時間はくつろげそう笑
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ということで、大田区の温泉文化を堪能し、3線発着の頭端式ホーム蒲田に到着。自然と歴史と温泉の久しぶりの半日散歩、都心で気軽の入れる大田区の温泉銭湯、是非行ってみてはいかがでしょうか~
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