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#ちょろけんのメモ 路上ライブ論のための覚書―身体性と公共空間―

 私は、路上ライブ―都会の雑踏の中にある音楽の輪が好きだ。温かくて一瞬の、音楽を介した人間のつながりは、なんだかほっとする。いつか、ある演奏を聴いていたら、警察官に解散させられたことがあった。「“都市計画”と都庁とゼネコン」は芸術を解しないのだろうか。
 路上ライブの禁止は究極的にはテクノクラート的発想であり、人間の生を“管理"しようという不気味さを感じる。テクノクラートと一緒に"都市計画"を崇める義理はない。私たちは、都市に生きること、身体性を取り戻す必要があるのではないだろうか。要するに「自由に路上ライブできないのは変じゃない?」という話だけど、うまく言語化できないのでこれから勉強しようと思っているところだ。


新宿の広場

西口広場の反戦フォーク集会
 行政・警察の強圧的対応の歴史的背景には、ベトナム反戦運動の一環として行われたフォーク集会があるのかもしれない。新宿西口広場に若者たちが集い、広場は熱気に包まれていたという。音楽は政治的な力をもちうる。その芽をあらかじめ摘む目的で、路上ライブを禁止する法規範が成立したということは考えられる。

地下広場のフォーク集会
『一枚のものがたり』東京新聞
(https://www.tokyo-np.co.jp/article/242878)

 アメリカ軍の爆撃機が、アメリカの工場で生産されたナパーム弾を積み、日本の米軍基地で給油し、ベトナムにナパーム弾を投下し、ベトナムの兵士や農民を殺す。世界が一体となり、戦争ははるかかなたの出来事ではなくなっていた。この事実を感じ取ったから、当時の若者は歌に反戦と平和のメッセージをのせたのだろう。

広場としての新宿
 早稲田大学演劇博物館での企画展の開催に際し、岡室美奈子氏は、1960-70年代の新宿がエネルギッシュな運動の核=広場であった時期を概括した後に、結語において、新宿の多文化都市としての将来を次のように語っている。

磯崎が構想した〈錯綜体〉としての都市のイメージを、カオス的なエネルギーを秘め、光と闇、ハレとケを併せ持つ新宿という街のこれからに反映させること、すなわち、個々の人や文化が網目状に繋がり合う共生の場として構想することは可能なのではないだろうか。2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、新宿の浄化は加速されていくだろう。それでも新宿が均質化された他の都市とは一線を画し、多国籍の人びとと多様な文化が繋がり合い共生する祝祭広場を志向する限り、この街は今も可能性に満ちていると思うのである。

『演劇博物館「あゝ新宿―スペクタクルとしての都市」展開催にあたって』
WASEDA ONLINE
(https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/160511.html)

 新宿という街そのものを広場としてとらえ、国境を越えて人・物・情報が行きかうこれからの時代に、新宿を「個々の人や文化が網目状に繋がり合う共生の場」へと成長させるべきとの提言には、少なからず共感を覚える。MIYASHITA PARKのように誰か異質な人々を排除するのではなくて、様々な色をもった人々を集め都市をモザイク状に塗っていくことは、"管理"上は非効率的だが、都市本来のあり方や人間の暮らしを第一に考えればこの結論に至るはずだ。
 この磯崎とは、建築家の磯崎新だ。彼は、新宿新都心の新都庁のコンペティションで、低層で横に広がった建築の案を提出した。丹下健三の超高層案(結局、この案が採用された)とは対照的だ。これくらいが人間の身体感覚に適った大きさではないかと私は思う。

『奇抜すぎる東京都庁舎のアイデアも!?世紀の”不可能建築”がおもしろい!』
和樂web
(https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/80242/)

新宿西口広場の特徴
 フォーク集会の舞台となったのは新宿西口広場だが、ここは小田急百貨店と共に板倉準三が設計した作品だ。ハルク、小田急百貨店、京王百貨店が屏風のように並び、ロータリーの渦巻きから自動車が走り出す、そんな光景は近代建築のたどり着いた合理的な姿で、今日見ても近未来的である。残念ながら再開発が始められてしまい、この光景はもう見られなくなる。

 松隈洋氏によれば、坂倉は、機械文明の時代において、人間のためのより身体的な建築を造ることに意を注いだ。しかしながら、坂倉や彼の弟子はできあがった西口広場一帯に満足することはなく、広場から車を取り除くことや広場から新宿新都心まで光の道を伸ばすことなど、より人間本位の建築を展望していたという。松隈氏は、西口のフォーク集会にも触れて、人間が自由に集えるという西口広場の特徴を、若者が本能的に掴んだからかもしれないと述べている。建築と身体感覚の相関関係がおもしろい。

二つのアプローチ
 広場だった新宿のほんの一断片をみてきた。異議申し立てを行うフォーク集会と、その舞台となった西口地下広場。これらは整理すれば、(1)運動体としての広場と、(2)都市空間としての広場といえる。この二つのアプローチは、路上ライブを考察するのに有効だと思われる。

ストリートピアノという試み

 路上ライブの類例としては、ストリートピアノがある。ストリートピアノをめぐる迷惑問題と公共空間におけるストリートピアノの役割について、イワモトユウ氏・フクムラ氏・モモコ氏が議論しているが、この配信をようやく聴くことができた。以下、この議論の概要を、私の補足を交えて記していきたい。

 ストリートピアノをめぐる問題
 日本ではまだ珍しい、ストリートピアノ。海外では、イギリスに拠点を置く"Play me, I'm yours"というプロジェクトが、ストリートピアノの設置を進めている。

シドニーにて
"Piano Highlights"-Photo
Play me, I'm yours
(http://www.streetpianos.com/highlights/#photos)

 しかし、日本では残念ながら定着していない。YouTubeなどで発信するピアニストたちが、ストリートピアノを独占的に利用し(腕自慢大会と批判する声もある)、それが騒音や混雑など様々な問題を引き起している。とりわけ、普通の人=プロのピアニストではない市民が、ピアノを弾く機会が奪われ、あるいは「うまくないと弾けないのでは……」という場の雰囲気が生まれ、ピアノを弾くことができなくなってしまう。もともとストリートピアノの趣旨は憩いと交流の場をつくり出すことだが、腕自慢大会が起こってしまっては問題だ。イワモト氏らはそう懸念する。

公共空間の上書き
 そこで、ストリートピアノと公共性が議論の主題となる。公共空間にピアノを核とした集まりを置くことで、都市の公共空間を自分たち自身の色に塗り替えていくにはどうしたらよいかということだ。

公的ー共的ー私的 
 これを考えるうえで、公的ー共的ー私的という概念を用いていく。これは、文化人類学者の森明子氏の唱えた概念だ。公的=社会的な空間と私的=個人的な空間との間に、共的空間、すなわち門戸は開かれてはいるものの一定の親密さのある空間、自分の居場所でありつつ他者の眼差しを感じる空間がある。例えば、行きつけのバーや近所のコインランドリーがそうだ。私は喫茶店めぐりが好きだが、喫茶店のコーヒーを片手にゆっくりできる空間も共的空間の一例だ。

公的ー共的ー私的

 この概念を用いれば、ストリートピアノとは公的空間の真ん中に置かれた私的な装置であるといえる。この私的な装置の周りに音楽を介して人の輪をつくり出すが、そこに共的空間が生まれる。イワモト氏らは、ピアノを演奏する男の子と、その子を見守る母親、演奏に聴き入る若者という実際の光景をもとに考察を進め、起点は私的な演奏であっても、そこには音楽を楽しむ方向性が共有されたまとまりができていくのだとストリートピアノの空間的性質を明らかにした。

文化の核を埋め込む
 公的空間では人は孤立しており互いに何の関係ももたない(儀礼的無関心)。それに対して、ストリートピアノは演奏者と道行く人々とを緩やかに結びつける機能をもつ。公共空間に投げ込まれた異質なものが、文化の核としてその周りにさざ波を立てていく。ストリートピアノから流れる音楽は、街中の音、ひいては空間の色を上書きする。都市における実践としては、SHIBUYA HACK PROJECTやミリメーターも同様の試みだ。こういった上書き行為の積み重ねが都市空間を人間本位のものに変えていくだろう。

迷惑と公共
 さて、公的空間と共的空間が衝突するときに、境界で摩擦=「迷惑」が発生する。ストリートピアノをめぐる問題は、共的であるべき空間をピアニストが独占したから起こった。だが「迷惑」はピアニストを排除すれば減るものではない。では、「迷惑」を最小化しつつ、共的空間をつくるにはどうしたらいいか。
 「迷惑」とは、その空間で行われる他者の行為を、自分では制御できない―私なりに説明すれば、工事現場の騒音は別の道を通って避けることができるが、目の前で突然ライブが始まってはどうすることもできない―という点にあるのだろう。道路族マップという道路を私的に利用する住民のいる場所を挙げていくサイトがあるが、このサイトがあるというのも「迷惑」の感じ方の一つだ。
 解決策としては撮影禁止や時間制限など技術的方法もある。しかし、前述したようにストリートピアノの周囲に方向性があることが大事で、なによりピアニストが、公共のためになる善い事を無償でするという意識をもたなければならないはずだ。

 以上、イワモト氏らの考察をまとめた。路上ライブとは全然別の話題に見えるが、都市空間に生きる私たちの身体性を取り戻すための実践という考え方は、路上ライブの意義を考えるうえで参考になる。SHIBUYA HACK PROJECTの「下からのまちづくり」は、問題意識が私と共通することもあっておもしろいと感じた。


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