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番外編:ルシアの誕生日

 日が落ちて、夏の熱気は、幾分か和らいでいた。仄かな熱を残した月のない夜は、雲ひとつなく澄み渡っている。

 ランプの明かりで煌々と照らされた部屋の中は、オレンジ色の光で溢れていた。慌ただしさから離れて、辺りは、水を打ったように静まり返っている。

 ルシアは、煌びやかなドレスを脱いで、白いナイトドレスに着替えると、窓辺に設えられたソファーに、ゆったりと身体を預けた。

 心地良さを通り越した疲労で、柔らかなビロードと身体が、今にもひとつになってしまいそうである。

 ルシアにとって、今日は、いつも以上に目まぐるしい一日だった。

 誕生日は、毎年いつだってこうである。王宮の周りに集まった国民への挨拶に始まり、華やかな晩餐会に至るまで、ずっと、息を吐く暇もない。

 皆が祝ってくれるのは、とても光栄に思う。けれど、一日中気を張っているのだから、夜には、どうしてもぐったりしてしまうのが常だ。

「お疲れ様でした。ルシア様。」

 ぐったりとソファーにもたれて溜息を零すルシアに、サミュエルが、いつものように労いの言葉をかけてくれた。

「ありがとう、サミュエル。嬉しいけど、毎年疲れちゃうわね。……エドワードって、交代の時間だったかしら。」

 ルシアは、サミュエルに力ない微笑みを返すと、ふと辺りを見回した。

 いつもなら、兄の隣にいるはずのエドワードの姿が、どこにもない。

 近衛の交代時間は、常に頭に入れてあるはずだが、さすがに、疲れて勘違いでもしているのだろうか。

「いえ。ルシア様、庭をご覧下さい。」

 首を横に振ったサミュエルに促され、ルシアは、暗闇に沈んだ裏庭に視線を落とした。

 新月の宵闇に塗り込められた裏庭の真ん中に、ぽつりと、ランプの明かりがひとつ見える。ちょうど、いつもお茶をするテーブルのあたりだろうか。

 弱々しい明かりに照らされて、手を振るエドワードの輪郭が、薄ぼんやりと浮かび上がっている。

 ルシアは、思わず首を傾げた。

 こんな時間に、エドワードは、裏庭で何をしているのだろう。

「庭に降りましょう。……暗いので、お手をどうぞ。」

 サミュエルは、柔らかく顔を綻ばせると、ルシアにそっと手を差し伸べた。

 裏庭に、何があるというのだろう。

 ルシアは、不思議に思いながら、誘われるままに、サミュエルの手を取った。

 彼と手を繋ぐなんて、子供の時以来だろうか。

 懐かしい温もりを感じながら、ルシアは、真っ暗な裏庭に足を向けた。

「どういうこと?」

 ルシアが裏庭に降りると、いつものように、テーブルにティーセットが並んでいた。普段と違うのは、今が夜更けで、明かりは、頼りないランプのひとつだけというところだろう。

 サミュエルも、エドワードも、ルシアの問いに答えない。

 ルシアが、訳も分からないまま、席に着いた時だった。

 エドワードが、タイミングを見計らったように、ランプの明かりを吹き消した。

「きゃっ。」

 不意に訪れた暗闇に、思わず悲鳴が零れ出る。

「ルシア様、驚かせてすみません。でも、兄様も俺も、傍にいるから大丈夫です。」

 姿は輪郭さえ朧だが、申し訳なさそうな声音は、エドワードのものだ。

「どうして明かりを消したの?」

「その方が、より明るく見えるからですよ。闇に目が慣れるまでは、お茶をどうぞ。寝る前ですから、ハーブティーに致しました。」

 隣で、サミュエルがちいさく笑う気配がした。

 優しい水音と共に、爽やかなハーブの香りが鼻腔をくすぐる。

 ルシアは、じっとテーブルに目を凝らしながら、零さないようにそっとカップを手に取った。

 口に含めば、ミントの清涼感と、甘いカモミールの香りが口に広がる。

 夏の夜のお茶には、これ以上ないブレンドだ。

 真っ暗で何も見えないけれど、これはこれで、ちょっと楽しい気がする。友達と、夜更かしをすると、こんな感じなのかも知れない。

「さて、そろそろ頃合いですね。……ルシア様、ご覧下さい。」

 しばしの沈黙のあと、サミュエルが、遠慮がちにルシアの肩を叩いた。

 ルシアが顔を上げると、サミュエルの青銀色の瞳が、はっきりと眼に映る。

 先程までは、輪郭を捉えるのがやっとだったのに、不思議なものだ。

「……いえ、私ではなく、空を。」

 じっと見つめられることに、耐えられなかったのだろうか。

 サミュエルは、すこし照れ臭そうに、苦笑を漏らした。

「空?」

 ルシアは、サミュエルに言われるがままに空に視線を移した。

 弱々しかったはずの虚な星々は、世界中の宝石を鏤めたように、眩く煌めいている。煙るような天の川は、夜空に敷かれたレールのようだ。

 こんなにも、夜空は、美しいものだっただろうか。

 糠星の輝きに、ルシアは、思わず息を呑んだ。

「ルシア様、改めまして、お誕生日おめでとうございます。」

「おめでとうございます、ルシア様。俺たちからの、細やかなプレゼントです。」

 両隣から、優しいサミュエルとエドワードの声が耳朶を打つ。

 たった一言なのに、今日受けた数多の祝福よりも、深く心を揺さぶられた。

「……二人とも、ありがとう。わたくし、今日で一番嬉しいわ。」

 うっかり涙が溢れたけれど、きっと、夜が覆い隠してくれるだろう。

 ルシアは、わずかに滲んだ綺羅星の群を、しっかりと胸に刻んだ。

 この夜は、特別なものになるだろう。

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