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026_疑惑

 鴉の鳴き声は、茜空の彼方に虚しく響いている。

 重たい沈黙に、肺腑が灼けつくようだ。ハロルドの口から、何が語られるのだろうか。

 サミュエルは、ごくりと生唾を飲んだ。

 ザカライアは、叔父に懐いていたから、臣下には語らなかった何かがあるのかも知れない。

 ハロルドは、深い溜息を零すと、静かにカップを置いた。

「この話は、まだ誰にも、聞かせたことはないんじゃがの。」

 ハロルド、そう前置きして、祈るように手を組む。

「あれは、ザカライアが、病床に臥せっていた頃だったか……。」

 ハロルドは、瞑目すると、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

 

 

 初夏の爽やかな風が、生い茂った梢を揺らしている。開け放たれた窓からは、深い緑の香りが、優しく漂っていた。

 王の寝室には、従者の姿はない。

 ハロルドは、ベッド脇の椅子に腰を下ろすと、臥しているザカライアの顔を覗き込んだ。

「叔父様、遠くから来ていただいてありがとうございます。」

 ザカライアは、身体を起こすと、弱々しい笑みを浮かべた。

「可愛い甥が臥せっておるんじゃ。顔くらい見にくるわい。」

 ザカライアの涼やかな目元は、すっかり落ち窪んでしまっている。元々細身ではあったとはいえ、病床の甥は、憐れなほどに痩せ衰えてしまっていた。

「ふふ、ありがとう、叔父様。」

「して、最近調子はどうじゃ?」

 ハロルドは、くすりと微笑むザカライアに、静かに問いかけた。

 蒼ざめた顔は、以前見舞いに来たときよりも、憔悴しょうすいしているように見える。

「うん、良くはない、かな。正直に言えば。ただね、嬉しいこともあったんだよ、叔父様。」

 ザカライアは、すこし目を伏せると、訥々とつとつと答えた。

「嬉しいこと?」

「カーティスが、お見舞いに来てくれたんだ。僕たち、あんなに喧嘩ばかりしているのに、やっぱり兄弟だね。」

 ハロルドが問い返すと、ザカライアは、嬉しそうに相好そうごうを崩した。

「あのカーティスがのう……。」

 ハロルドは、すこし胸に引っかかりを感じた。

 ザカライアとカーティスは、決して仲の良い兄弟ではない。

 ザカライアの内政を重視する穏健な為政方針と、カーティスの先進的な思想は、基本的に相容れないものだ。会えば論争になり、臣下をひやひやさせることもしばしばである。

 ザカライア自身は、それでも弟としてカーティスに愛情を持っているようだが、叔父の自分の目から見ても、カーティスもそうであるとは思えない。

「元気になるようにって、ハーブティーをくれたんだよ。わざわざ特別にブレンドしてもらったんだって。……まあ、最後はやっぱり、口論になってしまったけれど。」

 嬉々として語っていたザカライアだったが、急に口を噤むと、悄然しょうすいと俯いてしまった。

「まあ、あやつの性格を考えるとのう……。」

 カーティスの血気盛んなところは、病床の兄を前にしても、変わらないらしい。

「あの子と政治の話をすると、どうしてもね。」

 ザカライアは、涙を堪えるように、ぎこちない笑みを浮かべた。

「そのハーブティーで、元気は出たか?」

 ハロルドが何気なしに問いかけると、ザカライアは、ふいに口をつぐんだ。

「……ザカライア?」

 押し黙るザカライアに、ハロルドは、優しく呼びかけた。

「……えっと。ちょっと、身体に合わないのかな。気分が悪くなることがあるんだよね。」

 ザカライアは、言い辛そうに、言葉を濁した。

「何が入っているか、調べたのか?」

 ハロルドは、身を乗り出すと、ぐっと声を潜めた。

「ううん。あの子を疑っているみたいで、嫌だからね。ただ……。」

 ザカライアは、首を横に振ると、言い澱むように、語気を弱めた。

「ただ?」

「もしかするとって、ちょっとだけ思ってしまっている自分がいるんだ。兄として、最低だよね。あの子は、私の弟なのに。」

 ザカライアは、悲しげに俯くと、ぎゅっと胸元を抑えた。

「無理だけはするなよ、ザカライア。ルシアもまだ、成年しておらんのだから。」

 ザカライアが世を去れば、次代の王は、ルシアになる。

 ただし、成年を迎えていないルシアが王位に就けば、必然的に、誰かが摂政として後見することになるだろう。そして、順当に行けば、それはカーティスの役割だ。 

「うん。医者にも、そう長くは持たないと言われてしまっているしね……。残していくルシアのことだけが、気掛かりだよ。せめてあと二ヶ月。あの子が成年するまでは、頑張らないとね。」

 ザカライアは、自分を奮い立たせるように何度も頷くと、精一杯の笑みを浮かべた。

 その顔は、ひどく悲しげで、娘への愛に満ちている。

 それが、ハロルドが見た、ザカライアの最後の笑顔になってしまった。

 

 

 

「結局、本当のことは分からずじまいじゃったがの。ただわしは、今でも疑っておるんじゃよ。カーティスが、病気につけ込んで、弱ったあの子に何かしたんじゃないかとな。」

 語り終えたハロルドは、紅茶を一口啜ると、苦しげな溜息を零した。

 サミュエルは、不安に駆られて、ちらとルシアの顔を覗き見た。

 ルシアは、声も出せず、青ざめた顔で、カップを握りしめている。ちいさな手が、小刻みに震えているのは、衝撃が強かったせいもあるのだろう。

「つまり、ハロルド様は、先王陛下の暗殺をお疑いになっていると?」

 サミュエルは、意を決して、もつれそうになる舌を動かした。

 ルシアにとっては、酷な疑惑だろう。

 ハロルドは、声を上げることなく、こくりと頷いた。

 モントール公には、動機も、利もある。自身が王位に就けずとも、ルシアの後見人になってしまえば、実質、王権を握ったも同然だっただろう。

「そんな、そんなことって……。お父様、まで……?」

 ルシアは、掠れた声を絞り出した。動揺のあまり、声が切れ切れになってしまっている。

 今の自分に、ルシアを慰める術はない。

 サミュエルは、口惜しさに、ぐっと拳を握りしめた。

「ルシアや、そうと決まった訳ではないんじゃ。所詮、爺の憶測でしかない。老人の戯論ざれごとと思って、忘れても良い。」

 ハロルドは、ルシアを宥めるように、柔らかな声音で呼びかけた。

 確かに、ハロルドの言うように、これは憶測でしかない。

 それでも、モントール公の潔白を、証明出来ないのも事実だ。

 先日も、ルシアの暗殺未遂事件が起きたばかりである。確証こそ掴めていないものの、モントール公の影は、どの事件の裏にもちらついていた。疑ってかかるのが、筋というものだろう。

 サミュエルは、暮れ行く窓の外に視線を移した。

 鴉の群は、不穏な残響を残していく。

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