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涼しさのどくばり

僕はクラゲだ。

技術が進歩したからなのか、時代がこれまでの非常識に寛容になってきたのかは分からないけれど、僕たちは陸に上がるとヒトの姿を象ることができるようになった。

けれども、ひとつ厄介な事情がつきまとう。

それは、目には見えないけれど心は隠せないということ―――。

――――――――――

ヒトの暮らしを10日間続けてみた。
とてもぜいたくな生き物だなあと思った。

コンビニはいつだって街を照らす。バスや電車も朝から晩まで走り続ける。夏休みの子どもたちが過ごすおうちにも、サラリーマンが働くあのオフィスビルにも、ごうごうと音を立てる室外機が取り付けられている。

涼しい顔をしている人間は、長い年月をかけて、頭を抱えながら進歩してきたんだろう。水面で揺られる僕には到底できっこない。

そんなことを思いながら街を歩くと、僕の心をのぞいた人がこう言った。

「嫌味まで見えちゃうもんだから、困ったもんだね。」

別に皮肉が言いたかったわけじゃない。ぜいたくな暮らしを手に入れるまでの苦難や努力を知らない僕は、ただただ羨ましかった。ヒトでいられる時間が、ずっと終わらなければいいのに。

――――――――――

少しして、僕にはヒトの友だちができた。

君は僕の心をのぞいて、「そうだよね!僕もそう思ってたんだ!」と言ってくれた。

それからというもの、僕と君は毎日のように話す仲になった。

「バスから見える夕焼けは、どこまでも綺麗でしょ?でも、それを見ている僕は綺麗じゃないんだ。汗もかいてないのに。どうしてだと思う?」

「その景色に飛び込みたいけど、それじゃ汗かいちゃうから。多分そう。」

暑さもろくに感じない暮らしに嫌気さえ感じているのか、風鈴やうちわを懐かしんで寂しげに笑う。

「この胸を締めつけられるような気持ちは、『エモい』っていうんだって。言葉はいくつ生まれても形にならないけど、小さな檻になって僕を閉じ込めるんだ。君は海に閉じ込められているとき、どんな気持ちだった?」

「僕は閉じ込められている感覚がなかったんだ。ヒトの暮らしを知っていたらそんな気持ちになったかもしれないけど、それだけたくさんのことが生まれてるってことなのかもしれないね。」

夕暮れ、砂浜を歩きながら思う。

もう一度、海に戻ってみようかな。

「最後に握手、しよう。」

心をのぞいた君が、手を差し出す。
僕もそれに応えて、手を差し出した。

ぎゅっと握りあった手と、プスっと刺す音。

僕と君は、ヒトの暮らしを終えた。

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