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尊いもの

「ママ、今日のコーチだれかな?」
「今日スイミングおわったらドーナツたべたいな」

週2回、スイミングスクールへ向かう車の中、娘の無邪気な言葉に強張った心がほぐれ、思わず頬が緩む。
習い事をさせるのは経済的にも身体的にも楽ではない。
パートが休みの日は、子供たちの習い事で1日が終わる。

夫とは数年前からほとんど会話もなくワンオペ家庭内別居状態が続いている。
私の人生何だったんだろう・・・
虚無感に襲われ、いっそこの世界から消えてしまいたくなる瞬間がある。
将来への重苦しい謎の不安に心が支配されているそんな瞬間。

娘は母親のそんな瞬間を見逃さない。
「ママ、どうしてそんな悲しそうな顔してるの?」
心配そうに尋ねられてハッとする。
「大丈夫だよー。ごめんね、心配させて。」
娘は他人の心の痛みに敏感な子だ。
悲しみの中にいる人、苦しみを抱えている人にそっと寄り添う、生まれながらの優しさを持っている。
他の子より苦手なことや、成長が遅れていることも多いけれど、慈愛というかけがえのない賜物を持って生まれてきたこの子を私は誇りに思っている。

娘の通うスイミングスクールはビルの7階にある。エレベーターで7階まで行き、階段を下ってプールがあるので正確には6階だろうか。
娘を送り出すと、私はいつもプールが見下ろせる7階の窓から、娘の泳ぐ姿を観ている。9ヶ月前、幼稚園年長の冬に始めたスイミング。「水慣れ」の段階を経て、「泳ぐ」という表現にふさわしくなってきた。
初めは両腕に小さな浮き輪のようなものをはめて練習していた。次に腰にヘルパーと呼ばれる浮きをつけて練習する期間が長く続き、今月から晴れてヘルパーを卒業。クロール習得を目指して練習している。

3つ年上の姉が泳いでいる姿を7階の窓から私と一緒に眺め続けて半年経った頃、「わたしもやってみたい」と自分から言い出して入会した。
怖がりで慎重な娘が勇気を振り絞って私の手から離れ、プールサイドへ小さな一歩を踏み出した瞬間をよく覚えている。
申し込みはしたものの、直前で不安になった娘はプールに入るのを嫌がり私にしがみついていた。「嫌ならやらなくていいよ」と言いそうになるのをグッと堪えて、「大丈夫だよ。行っておいで。」と背中をそっと押した。
泣き出しそうだった娘の表情が、決意したようにキリッと変わり、あとはもうなんてことはない。しっかりとした足取りでコーチの元へ1人で歩いて行ったのだ。

いつまでも小さくてか弱い、赤ちゃんに毛が生えたような幼い子だと思っていた娘。実際には日々、たくさんの刺激を受け、グングンたくましく成長している。

なのに母親の私ときたら、どうしてこう進歩もなく、同じ過ち、同じ失敗を繰り返し、一度は心を通わせたと思った相手に思いやりを持てなくなってしまったのだろう?
今あるもの、子供たちの笑顔、それだけあれば十分、生きる目的、理由になるはずだ。虚無感は私が心から子供たちに向き合えていなかった証拠かもしれない。いつか娘たちが私の手を離れていった時、そんな将来のことを今考えて悲観していても仕方ないのだ。

レッスン中、娘はプールから時折思い出したように上を見上げる。(ママ、みてるかな?)
(見ているよ)と手を振ると、小さく手を振り返したり、ニコッとはにかんだり、時々ピースをしたり・・・

細い手足を一生懸命に動かし、水中を優雅に前進できるよう頑張っている娘。
その尊い姿をこうして見ていられること。
間違いなくこれは私の幸せなのだ。
いつか私の命が尽きる時、脳裏に浮かぶのはプールのあるビルの7階から眺めた娘の姿かもしれない。今の私はそれほどに尊い光景を見せてもらっている。

40過ぎてもあまりに未熟な私の心。心が苦しい時ほど、感謝の気持ち、今あるものへの感謝の気持ちを大切にできる人間になりたいと思う。

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