音拾い
人の記憶というのは不思議だ。
忘れてしまう記憶と、とどまる記憶がある。
私の身体の中に残っている記憶の共通点を探してみた。
分かったのは、その記憶のどれもが、五感との結びつきが深いということ。そして、ふとした瞬間。その記憶と繋がったとき、私は深い深い安堵に包まれていく、ということ。(これは今度。少し探ってみたいテーマ)
「音拾い」を始めたのがいつからだったのか。
それが、どうやって始まったものだったのか覚えていない。
けれど「おやすみ」と言って、母が電気を消し、部屋の扉から出て行くその姿も、布団の重さも、うすぼんやりと暗がりに浮かび上がってくる家具も、部屋の暗さも…なにもかもすべて、他のことはしっかりと覚えている。
私は、その一人の空間と時間が好きだった。
子どもには怖いはずの真っ暗な部屋は、宇宙みたいで好きだったし、静かで落ち着いた空気感は私を安心させてくれるもので好きだった。
母の気配が消えたあと、私は目を閉じて耳を澄ます。
耳を澄まして、色々な音を拾い始めるのだ。
耳だけに意識を向ける。
あの頃の私は「至福」と言う言葉は知らなかったけれど、振り返ってみると、記憶の中にあるあの時間はまさに、至福の時間だったと言える。
幼い頃暮らしていた、宮城県石巻市。
家は駅から数分の場所にあり、今ではすっかりさびれてしまったが、当時は人通りが多い賑やかな場所だった。
でも、なにせ田舎だし、午後7時にもなれば静かな夜が来る町だった。
家の斜め前に、線路に向かう路地があった。
少し入っていくと、空が大きく広くひろがる場所があって、そこには貨物列車の線路があった。材木や鉄骨などの資材が無造作に置かれていて、駅に続く狭い道には国鉄に勤める人たちの社宅があったけれど、人を見かけることは、ほとんどなかった。
夜になって音拾いを始める頃、遠くに線路を走る列車の音が聞こえてくる。
「ガタン」「ゴトン」という規則正しい音は、次第に小さくなって離れていく。夜の闇の中へ消えていく音を、私は耳を澄ませて、拾い続ける。
色々な音が聞こえてくる。
時計の「カチカチ」という音や、父と母の幸せそうな話し声や、冷蔵庫のブンっとなる小さな音。水道の蛇口をしめるキュッという音。父と母が階段を上ってくる音が聞こえたら、私の音拾いの時間が終わる合図だった。
今でも時々、音を拾う。
それはお風呂場だったり、暗くした部屋の中だったりと、いろいろだ。
場所によって拾える音は違うけれど、遠くからスピードを出して車が走り去る音が聞こえると、きまって記憶の鍵が「カチリ」と音を立てて、外れる。
そして胸の奥がほんの少しだけ苦しくなる。
私の記憶は、何に反応しているんだろう?
切なさでも、悲しみでもなく、ただただ、何にも形容しがたい思いがこみあげてくるのだ。
そうして私は、記憶の海にぷかぷかと浮かぶ。
穏やかで、静かな…まさにし・ふ・くの海に。
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