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「六年前、ぼくはギリシャのスニオン岬のポセイドン神殿に立って、エーゲ海を眺めていた。」

小学生というのは、ときに大人が度肝を抜くような集中力を発揮することがあって、それは取り立てて特技のない平凡なわたしでも、同じことでした。
わたしの集中力はもっぱら本を読むことに向くわけですが、いま思い返しても「よく読んだなあ」と思うのは、『ソフィーの世界』です。

この本が現在どのくらいの知名度なのかは知りませんが、”哲学の歴史を辿る物語”として当時かなり有名というか、話題にのぼっていたのだと思います。本屋に平積みになっていたその本を手にとったわたしは、たしか3ヶ月くらいかけて、この難解な物語をどうにか読み切ったのです。

『ソフィーの世界』にくらべると、同じくヨースタイン・ゴルデルが書いた『カード・ミステリー』は、表面的な難解度はかなり低く、物語のおもしろさは倍以上、というのが、当時のわたしの感想です。その証拠に、『ソフィーの世界』は一度読み返したかどうか、という程度ですが、この『カード・ミステリー』は十回は読んだのではないか、と思います。

ヨールタイン・ゴルデル, 山内清子訳『カード・ミステリー 失われた魔法の島』(徳間書店, 1996年)

大人になってこの本を再び手にとって読み始めたとき(そのときは結局読み切りませんでしたが)、この作品が「わくわくするファンタジー」というだけでなく、ヨーロッパならではのそれなりに複雑な背景をもっているのだと、初めて気がつきました。
たとえば主人公ハンス-トマスはノルウェー人だけれど、父方のおじいさんはドイツ兵で、戦争中だったためにおばあさんと結婚できず、おばあさんはひとりで息子を産んで育てた、とか。
いきなりシビアだよな…… 日本の小学生にはわかんないな、さすがにこれは。

物語は、ファッション界で迷子になったママを探すために、ぼく(ハンス-トマス)とお父さんが、夏休みをつかってノルウェーからアテネまで車で旅をする様子を描いています。
お父さんは哲学の先生で、道中は哲学的な対話や講義が満載です。ハンス-トマスは、途中のガソリンスタンドにいた奇妙な小人からパンをもらいます。その中には、『プルプルソーダと魔法の島』というタイトルの小さな豆本が隠されていて、同じく小人からもらった緑色のガラスルーペで、物語を読み始めます。
それは、パン屋の老人が息子にあてた本で、何世代かにわたる父と子の物語、そして「魔法の島」での出来事が描かれているのでした。

……いま、ほとんど読み返しなしで上のようなあらすじを書いたのですが、正直なところどの世代でどの出来事がおこったのか、よく覚えていないし思い出せないんですよね。
劇中劇中劇中劇、のような、何層にも入れ子になった物語の層はとても複雑で、読んでいるとハンス-トマスといっしょに豆本の物語に引き込まれてしまういっぽう、ふっと読むのをやめた瞬間には、自分がいったいいつの時代の誰の物語を読んでいたのか脳みそが混乱してしまう、というこれまたハンス−トマスと同じ体験をしてしまいます。

小学生のころのわたしは、この物語の複雑さと、いくつもの世代を行き来しているうちに謎が解けていくたのしさに惹きつけられるようにして、なんども読み返したのだと思います。
難しい哲学的な問いをどのくらい理解していたのかはわかりません。
あるいは、わたしもまた、虹色にかがやく金魚の美しさと、味の変わるプルプルソーダの魅力にとりつかれた人間のひとりになってしまったのかもしれません。
ひょっとしたら、「これはなんと深淵で難しい……」と思ってしまう大人になってからのほうが、物語の本質から遠ざかってしまっているのかもしれませんね。
ただ、少なくともヨーロッパの地理と地名と歴史には詳しくなったので、その点においては、昔よりも今のほうが理解度があがっていると、そう思いたいです。

この本に関する別の思い出をひとつ。

イギリスにいたころ、「そうだ、あの本を英語で読んでみよう」と思って、ピカデリーサーカスにあるWater Stone'sに行きました。とりあえずLiteratureのフロアに行けばいいよね、と思って行ったのですが、そこではたと気がついたのです。

この本の、英語のタイトルを知らないことに。

当時はスマホもないですから、頼りになるのは自分の記憶力と「カタカナをなんとなく英語っぽく発音するスキル」だけです。
ヨールタイン・ゴルデル、ヨースタイン・ゴルデル、と思いながら、店員に声をかけるところまでは問題ありませんでした。
店員が「本のタイトルは?」と聞くので「Card Mysteryだと思うんだけど」と言いますが通じません。

「著者名は?」
「ヨースタイン・ゴルデル」
……

ん?
この名前、英語圏じゃないな?
あれ、わかんない。英語発音わかんない。

そう、アルファベット語圏は、つづりはそのままで読み方は自国語に寄せる、というとんでもないことをやっているのです。文字は変えても、発音は極力元の言語に寄せる日本の努力を見習ってほしい。
ぜんっぜん通じない著者名に、店員もわたしも途方にくれたような顔になります。

やばい。
あ、そうだ。
「Sophie's Worldの著者なんだけど」

「ああ!ジョーステン・ガーダー!!それならこっちですよ」

なんやねんガーダーって。
ちなみにこの本の英語名は、”Solitier Mystery" でした。
ソリティアかい。

いまならスマホで一発なんですけどね。
いやはや、いい思い出です。


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