本はどこから始まっているか問題について
いま、本棚本の次の本を本棚の前で考えながら、あれをとっては戻し、これをとっては戻し、を繰り返してしまった。
Season3を迎えた「本棚にある本を片っ端から紹介する」企画は、これまで紹介した本は150冊ちょっと。
わたしの蔵書はまだまだあるのだけれど、シリーズものが多いこともあって、「このシリーズはこないだも書いたしな」などと考えていると、書く本がなかなか決まらないことがある。
いまがまさにその状態。
もうひとつ悩ましいのは、
「この本、どこがはじまり……?」
となる本が、複数冊存在していることだ。
例えば、わたしが何度も「書こう」と思って挫折している本に、ジョン・バニヤンの『天路歴程』があるが、本文に入る前に前書きがあり、前書きに入る前に日本語訳の解説が入ったりする。
先日紹介した『空棺の烏』など「八咫烏シリーズ」も、漢詩ではじまることがあったりして、わたしはあえてその漢詩を無視しているのだけれど、それにしたって”はじまりの一文”としては、物語に入る以前の部分を読まされている、という感が拭えない。
実際のところ、たとえ読めなかろうとその漢詩部分が作品の世界観作りに一役買っているのはたしかなので、本当は無視しないほうがいい。
それでは、日本語の解説などはどうだろうか。
もとの本にないはずのそれは、はたして”本の最初の一文”と言えるだろうか。
それとも、たとえば遺稿集などの場合、編集者による前書き(これは翻訳前の本にも掲載されている)は”本の最初の一文”となるだろうか。
著者自身による文章こそが、その本の”最初の一文”ではなかろうか。
でもそれでは、「本」という一つの形に収まっている、物理的な構成を無視することになる。
それは「本」ではない。
こういうことは、実は大学院の授業でも取り扱った。
とりわけ、「絵本」などは”どこからが本か”というのは難しい問だった。
絵で表現される本である以上、絵が書かれているならば表紙も作品の一部だし、あえて絵を載せていないならば、それも作品の表現の一部である。
これは、絵本以外の本でも、実は同じ問題がある。
わたしはよく、本の表紙で買う本を選ぶ。
装丁が違っていたら、目にも留まらなかっただろう、という本は結構ある。
そうすると、本の装丁はすでに本の一部であって、「文章」以前に本の世界観を形作っている。
この議論は、別に答えがあるわけでもなく、けれども考えれば考えるほどに意味がわからなくなり、結局、自分の中で落とし所を見つけてどうにか折り合いをつけるしかない。
そんなわけで、わたしの本棚には”最初の一文がどこか”問題に折り合いがつかずに、紹介されていない本がたくさんある。
そういう本たちは、いつ紹介できるようになるだろうか。
とりあえず、次に紹介する本棚本を決めないとね。
またシリーズものでもいいかしら?
放っておいても好きなものを紹介しますが、サポートしていただけるともっと喜んで好きなものを推させていただきます。 ぜひわたしのことも推してください!