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「サマセット州ケリンチ屋敷の当主サー・ウォルター・エリオットは、『准男爵名鑑』が唯一の愛読書であり、これ以外の書物はいっさい手にしないという人物だった。」

これは世間一般に認められる真実だが、虚栄心にまみれた親や親戚ほど厄介なものはない。
この真理はどの家庭でもしっかりと根を下ろしているにもかかわらず、ひとたびそれが我が身に降りかかると、更なる不幸、つまりその災難を一身に受けてやつれはてるか、あるいは自分の周囲の人間は真っ当であるという誤った認識に身を委ね、自身もまた虚栄心の塊へと変わっていくのだ。

などと、オースティン風に小説をニヤニヤ読んでみたところで、大人になって気付かされることは、多かれ少なかれ誰しも虚栄心に蝕まれそれによって振り回されている、という事実である。
指をさして笑っている姿は、明日は我が身なのだ。

ジェイン・オースティン著、中野康司訳『説得』(筑摩書房、2008)

『説得』はオースティンが書いた6編の小説の最後のもので、初期の頃に書かれた『高慢と偏見』を愛読する身からすると、いかにも地味でそして皮肉が弱いと言わざるを得ない作品だ。

若い頃に身分違いの婚約をし、虚栄心の塊のような家族と知り合いに反対されて婚約を破棄し、いまだにその愛を忘れられずにやつれた女性と、婚約破棄を恨みながらも自力で出世しひと財産を果たして立派な紳士となった青年が、8年の時を経て再会する。
主人公のアンは、自身の理性と判断力、そして周囲を不幸にさせないために選んだ婚約破棄を、後悔はしていないけれど、「絶対にそうすべきではなかった」と感じており、まったくの偶然から、再びアンと知人としての付き合いをすることになったウェントワース大佐は、周囲の説得に容易に丸め込まれる意志の弱さを嫌悪し、断固たる決意を実行する力を称賛している。

この小説で皮肉の的になっているのは、主にアンの父であるサー・ウォルターと姉のエリザベスの虚栄心であるが、アンに婚約破棄を勧めたラッセル夫人もまた、理性的でアンの家族よりはよほどしっかりした人物ではあるけれど、「身分」という枷からは逃れることができなかった。
アンの妹のメアリーも、いとこのエリオット氏も、「准男爵」という地位に値する虚栄心を持ち、その虚栄心に振りまわされて、実際のところ自分の行いが他者にとってどれほど滑稽なのか、まったく自覚していない。

と、ここまでは笑えるのである。
ベネット夫人を笑うように、コリンズ氏を馬鹿にするように、ウィッカム氏を蔑むように、指をさして「なんてバカな人たち」といって大笑いすることはできるのだ。

それでも、オースティンの読者は次第に気がつくように、その笑いは、実は主人公にも向けられている。
アンは、自らの理性と判断力、現実をしっかりと見る目を頼みとしているが、それでいて過去の思いから立ち直ることもできず、「愛されていたあの頃」という一番輝いていた思い出から抜け出せずにいる。
ウェントワース大佐は、振られた経験から意志の薄弱さを無条件に嫌うようになっていて、自制心と我儘の区別がつかなくなっている。

虚栄心とは違うかもしれない。
けれども、「プライドの保ち方」と「傷付けられたプライドの立て直し方」として、アンもウェントワースも過去の輝かしい愛の思い出に縋りつくしかないのだ。

オースティンの小説は往々にしてこういうとこがあって、どうしようもない親戚友人一同のせいで主人公の愚かしさは見逃されがちだけれど、それはこちらを、読者を指差して笑っているのである。
この人たちを笑っているあなたは、どれだけ有能な人間なの?と。

小難しい話はこのくらいにして、この小説の萌えどころに話を移すと、なんと言っても最後の手紙のシーンである。
とにかく手紙のシーン。
大勢で団欒中に、ひとり手紙を書くウェントワース大佐と、ほかの人と話をしながらもそれを気にしているアン。
そして手紙を書き終わると、大佐はその手紙を机に残し、アンが気がつくまでじっと見つめてから、なにも言わずに部屋を出ていくのである。

これ!
これ!!!

この時代、周囲に“そう”と思われていないような男女が、たとえ“そう”と思われていても、正式に約束を交わしていない男女が、ごく親密な個人的なやり取りをするのは外分がよろしくなかった。
だからウェントワースは黙って手紙をしたため、それがアン宛であるとわかるように視線を送り、それを正しく受け取ったアンがさりげなく手紙を回収するのである。

これがねー!
映像でははぶられていてねー!!
BBCのショートドラマ版の『説得』好きなんだけど、ここだけは!
ここだけは削らないで欲しかった!!

これはオースティン狂の友人とも意見が一致しているところですが、映像ではその良さが伝えられない、というのもわかるのです。
そんな友人のイチオシの場面は、ライム村の海岸を散歩中に、離れたところからアンを見ているウェントワースが、アンが振り向きそうになった瞬間にすいっと視線を外すシーンです。
ちなみに大佐は豆粒くらいのサイズでしか映っていません。
よく気がついたね。
でも好きだよ、そういうところ。

オースティンの映像化は、とにかく「無言の視線」のやり取りに全てが込められているといっても過言ではありませんので。
ええ。
相手を見つめる視線、これにつきます。

いま久しぶりに『説得』を読み返していて、やっぱり『高慢と偏見』ほど大笑いするような場面は少ないけれど、飲み込まれるようにぐいぐい物語にのめり込んでしまうのですよね。
おかげで今朝は、降りる駅からふたつ先まで進んでいました。
危ない。

オースティンは中毒性が高いですよ。
用量用法をきちんと守って服用しましょうね。


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