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すぐに理解できないことに時間で対峙する

息子がやっているドリルを一緒にみて教えていて考えたことのメモ。

あることを学ぶときに、1回では理解できないときがある。説明を読んだり聞いたりしても理解できない。言ってることはなんとなく分からなくもないが、自分では思いつかないし、わかったようで納得してないという状態。

私は、日々情報収集や学習をしていてこのようなことが多い。パット見で理解できないのはもちろん、けっこう熟読・熟考しても分からない。
これまでの経験で覚えている範囲で挙げると「SQL」「git」「Amazon ECS」「React」「Latex」など。これらは今はそれなりに使いこなしていてエキスパートかはともかく自分では「完全に理解した」気持ちになっているが、数ヶ月単位の期間で、「分からないな〜」という対象だった時期がそれぞれあった。

こういうときには無理してその場で理解しようと思わないことにしている。分からないことを受け入れる。そのうえで、その情報に触れる頻度を増やし、無理矢理にでも使う機会をつくる。

私は「体で覚える」「無意識が学習する」といった概念を信じていて、自意識化では理解できていなくても、時間がたつにつれて「あれ、なんとなくわかってきた」という経験をこれまで何回もしてきた。

分からないものをその場で理解しようとしても時間の無駄であることが多い(ただ対象と格闘した経験自体は生きるので完全に無駄ともいいきれない)。目安としては数十分くらい。その時間で無理だったらいったんあきらめる。それでまた明日やってみる。明後日もちょっと振り返ってみる。その繰り返しで活路が開けてきた経験をけっこうしていて、それが、いま難しいことを勉強しようとするときに「きっとマスターできるはず」という自信になっている。

息子の話に戻ると、息子が何かを学んでいる過程についても同じだろうと思って接している。あるパターン認識の問題をやっていたのだが、理解できてない様子。大人からすればごくごく簡単なもの。答えを教えて説明すると、ああそうか、となるけど、納得できてない様子。なので、「今日はもう十分やったので今日は終わりにしよう。また明日みてみよう。ちょっとずつやればいい」と言って終わりにした。

自分の子育ての経験なんてN=1の経験でしかないが、子どもは非連続に成長するものだと日々気付かされてきた。何かができるようになるとき、線形でちょっとずつちょっとずつじわじわできるわけではなく、ある日急にできるようになる。そしてそれは最初に教えたタイミングとはけっこうずれてやってくる。
今では大人・子ども区別なく、成長曲線は非線形であり、むしろ階段状のようなものだと思う。

何かを学ぶときに、できないことに決して焦らず、かといってできないことをできないと諦めて終わるのではなく、時間をかけて何度も練習するといつかできるようになる。対象に苦手意識を持たず、すぐに分からなくても大丈夫。時間とともにできるようになるはず、という楽観的な自信を持って育ってほしい。そしてそのことは日々自分にも言い聞かせている。

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