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「信じる」と「信じていない」は同時発生している!?その奥にある自分の課題

今日は「信じ切る事」について思った事をお話しようと思います。

 

私は今までブログで何度も「信じる」という言葉を使ってきましたが、

つい先日、ちゃんと信じる事が出来てなかったなと改めて思う気づきがありました(^^;)

 

そもそも、本当に信じていたら、

きっと「信じる」という言葉を使う事もないんですよね(^^;)

 

当たり前のことは自分と同化して見えないんですもんね(^^;)

 

…という事で、

そんなこんなの、自分の気づきをまとめようと思います。

今回も、できる限りゆったりくつろぎながら、お付き合いいただけると嬉しいです!

 

それではよろしくお願いします!
(どんな考えにも傾きがでるからこそ、見え(認知)始めるんですよね~)


「信じる」と言ってる時点で実は信じていない?!


「えっ!!!?!??どういう事!?」

 

そうです。

( ゚Д゚)

 

「信じている」という言葉を思い浮かべて、発した時点で、

同時に「信じていない」も発生しているという事なんですよね。

(いや、よくわからんわ(-_-;))

 

もう少し詳しく説明すると、

「信じている」といわなくてもいい場面であえて「信じる」というとき。

(どんなシチュエーションや)

 

そんな時は、

実は、信じていないから信じているといっている可能性があるかもしれないよということです。

(浮気の前科がある彼氏に対していう時とか?)

 

 

もちろん本当に信じていて、それを時と場合に合わせて、

あえていう場合もあります。

(大事な場面で…例えば何かのスポーツの監督が生徒に向けて、お前らならできる!信じてるで!みたいな?(^^;))

 

今私が言っているのは、

そんな発言の中に「実は信じていないから言っている可能性がある」かもしれないということです。

 

自分でも気づいてないけど、

無意識では信じていない。

 

そんな時があるんですよね(^^;)

 

 

そもそも、

本当に信じていたら、

信じる!!!!!!

と思わなくても、言わなくても、

当たり前のように信じているはずです。

 

信じると言う事は、

疑っている自分も同時に発生していて、

それを前提に、

「信じている」といっているんですよね。

 

だから、

信じているというよりは、

どちらかというと、

「信じたい」という気持ちが強いイメージです。

 

信じていると、

信じたいでは、

また意味が変わってきますよね(^^;)

 

 

「そうか、自分は信じたいんだな」

「そうか、自分は不安なんだな」

「そうか、自分は疑いたい気持ちがあるんだな」

 

そこを自覚すると、

またちょっと自分の中での気持ちが変わってきます。

 

 

本当は相手ではなく、

自分と向き合わなければいけないものが隠れているんだと、気づけるんです(^-^)

 

 

相手の中に色々と思う気持ちはあっても、

自分は相手の気持ちを想像することしかできません。

 

なので、

完全に相手の気持ちになりきるというのは、

無理なんですよね(^^;)

 

あくまで自分のフィルターを通して、

相手が見ている世界を見て考える(想像する)しかありません。

 

 

ちょっと話が逸れてきたので戻します!(笑)すいません(^^;)

 

とにかく、

「あの人を信じる!」と発言した自分の心の奥には、

「信じたい自分」がいるのか、

「疑う自分」がいるのか、

「不安な自分」がいるのか、

「本当に信じている自分」がいるのか、

もう少し掘り下げてみると、

また違ったものが見えてくるかもしれません!

 

 

そして違った気づきがあった時に、

「なぜ自分はそう思っているのか?」

とまた自分自身を掘り下げるのも一つ、

 

そして、

自分に課題があったんだと自覚できた時点で、

またニュートラルな位置に立てるので、

そこから、

「自分はどうしていきたいのか?」

と改めて問い直すことで、

最初に漠然と「信じる」といっていた自分よりも、

「信じる」の意味合いが変化して、

思う事ができます(^-^)

(これがもう一つ)

 

 

自覚する事の何が大切なのかというと、

自覚することで、

繰り返していた無限のループから抜け出すことができ、

もう一個上の次元を歩んでいくことができるんですよね。

(ちょっとスピリチュアルっぽいことを言っていますが)

 

私が思うに、

自分の課題が残っているままだと、

無意識にまたその課題と向き合わなければいけないようなことを引き寄せてしまってるような気がするんです(^^;)

(無意識をあなどるなかれです)

 

 だからこそ、

「自覚」してるのか、

「自覚していない」のかの違いはめちゃくちゃ大きいわけなんですよね(^^;)

 

 

人生って、

直線を真っ直ぐに進んでいるというイメージではなくて、

コイル状?みたいな円をぐるぐる回りながら少しづつ上に上がっていくイメージなのかなと、私は思っています。

 

だから時には戻っているような、

同じ場所にいるような、そんな気持ちになることもあります。

 

でも、

少しづつ少しづつ、クルクルしながら上には上がっていってるんですよね。

 

ただ、

課題が残っているままだと、コイル自体も縮こまっていて、なかなか上にあがれないというか、

高さで考えたときに、あまり上昇できずに同じ高さのところをぐるぐる回り続ける感じになってしまいます(^^;)

(厳密にいうと、ほんまに少しづつは上に上がっているとは思いますが…)

 

 

なので、

何度も同じような所でつまづいたり、何か同じような所で引っかかってしまうのは、

何かしら「課題」が隠れている可能性があります(^^;)

 

そして、何を隠そう私も、

つい最近、自分の無意識化にあった課題に気づいたんです(笑)

 

信じていたのは「ありのまま」ではなく「私にとっての理想」?!

今年に入ってから色んな事を体験させてもらっているのですが(笑)、

その中で、結構自分の心にガツーンと突き刺さるような出来事も沢山ありました。

 

このブログでも色々とまとめていますし、

その都度、自分と向き合い、自分のなかでの答えをだしてきております。

 

その都度、本当に一生懸命なので(笑)、

自分にとっては「そうか!そうだよね!」と納得がいっているのですが、

そのあとも学びを続けていく中で自分自身が成長すると、

また違った答えにつながったり、解釈自体が変化することもあります。

 

自分が学びを通じて少しでも成長できると、過去の出来事さえも意味づけが変わって、

全く違う見え方をするので、学びや知識には本当に助けられてきました。

 

その中で、

先日です!(笑)

「あー、、、そうか!そうだったんだ!」と自分の考えを見直すことがありました(^^;)

 

それがまさに、

「信じる」ことに繋がっていきます。

 

私の父親の話になりますが、私はブログで「父を信じていく」といっていましたが、

この「信じていく」発言の心の奥には、

「信じていない」自分ががっつりいた!ということだったんですよね(^^;)

 

だから先日までの私はまだ、

「信じる」という行為に、

そして言葉に、がっつり囚われてしまっていたんです。

 

本当に信じていたら、

「信じていく」という言葉を発することはありません。

それは最初にも言いましたが、

当たり前に自分のなかにあるものは、同化してしまって見えないからです。

 

当たり前のようにあるから、

出さなくてもいいんです。

 

でもどこかに、

不安や心配があったからこそ、

そういう発言をしていたんだな、、、と私は自分でそう思いました(^^;)

(あくまで、私はですが)

 

 

そこに気が付くと、

自分の中にまだ向き合わないといけない課題があることに気づけます。

 

全ては自覚することからなので、

自覚できたときに、

次にどうしていきたいのか?と方向性を選ぶことができます(^-^)

 

もっと、向き合って、自分を掘り下げていくのも一つですし、

手放すと決めることも一つですし、

できる行動はいくらでもありますからね(^-^)

 

根本に気づけたら、

その課題にまつわる出来事を繰り返すことは確実に減っていきます。

 

そして、

もう一つの気づきが私はありました。

 

それは、

私は父に対して、いつしか、

「自分の中にある理想の父像」を押し付けていたという事です。

 

その理想の父像を押し付けている父に対して勝手に期待して、

理想と違うと勝手に落ち込んだり、怒ったりしていたわけです。

 

「父親とはこうあるべきだよね、これが当たり前だよね」

とどこかで、思っている自分がいたんだなとおもいました。

 

自分の理想像を相手に押し付けてはいけない

 

これは子育てをするようになって、

改めて学んだ事だったので、

子供に対しては気をつけるようにしていました。

 

子供のそのままを愛する、

自分の理想の子供像を押し付けていては、

子供のありのままを愛していることにならない。

 

パートナーに対しても、

同じように思っていました。

 

 

でも、

父親に対しては、

その感覚を忘れていたんですよね(^^;)

 

私の父親は、

ギャンブル依存症で、どうしようもない父親ですが、

優しい性格だったことは確かです。

でも、

子供への愛情に関しては非常にあっさりしている(子供にそんなに興味がない)タイプだったんです。

 

そこを、

わかったつもりでいつつも、

どこかで「こうあってほしい」という願望の方が勝ってしまい、

いつの間にかありのままの父を受け入れるという事を忘れてしまっていたんですよね(^^;)

 

 

「今まで家族を裏切ってきたんだから、償って、ちゃんと家族を愛してよね!」

という気持ちがあったのかなぁ…(^^;)(笑)

(と、自分ではそう思いました)

 

 

でも。

 

でもです。

 

つい先日、

自分の中で、本当にすっと腑に落ちた瞬間があったんです。

 

「そうか、私は父の事を信じるといっていたけど、それは私の思う理想像の中の父を信じていただけだったんだ。そして、私は父を受け入れることができていると思っていたけど、私が受け入れていたのはやはり私の中にある理想の父親像に重なっている部分だけだったんだ。ありのままを受け入れるというのはそういうことじゃない。」

 

「ありのままを受け入れるというのは、優しい父、ギャンブル依存症の父、子供への愛情が薄い父、それらを含めてそのままを受け入れるという事だ」

 

(もちろん、ギャンブル依存症に関しては家族で向き合って、改善できるようにサポートしていくつもりです(^^;)) 

 

 

自然とこのように思えて、その時、ふっと心が軽くなりました。

 

 

これは言い方を変えてみると、

理想の父親像を手放した、とも言えますし、

もっと簡単にいうと、

期待しなくなったんです。

(いい意味でですよ(笑))

 

 

まぁでも、

「手放した」といった方がかっこいいですかね?(笑)

 

 

「信じる事」や「理想の父親像」に囚われていた自分を自覚できたことは、

自分にとってとても大きな成長です(^-^)

 

 

この時点で「課題」だったものが「課題」ではなくなりました。

 

 

よく考えたら、

私のまわりでも、

子供への愛情が薄い人(自分でそう言っておられる)もいます。

 

でも、

それが「悪いこと」だとは思いません。

 

 

「そういう人もいるよね」

と思えます。

 

 

「父親と私」という距離感だったからこそ、

少し、感覚が鈍っていたんだなと思いました。

(あと母親は愛情深い人なので、それも関係していたのかもしれませんね)

 

 

すべてを認めるってそういう事なんだな~

と、

しみじみそう思いました。

 

 

最後に、

すべてを信じる事って、

ある意味ものすごく勇気のいる事でもあります(^^;)

 

だって、

「その人を信じる」っていう事は、

「その人がする決断、行動すべてを信じること」ですからね。

 

自分の価値観ではありえないと思うようなことでも、

その人を信じ切っているのなら、

全てを受け入れるという事になります。

 

自分にとって都合が悪くなると相手に文句を言っているのでは、それは「相手を信じ切っている」という事にはなりません。

 

なので、

相手を「信じ切る」って、

本当に勇気のいる事です(笑)

 

 

それはそれで、

「ものすごく大変な事だよな…」と思う自分がいます(笑)

 

私にはまだまだ、

修行が足りないようです(笑)

 

今言ったことにオチはありません(笑)

 

ただ言える事は、

もっと精進して、

感謝の気持ちをもって、

コツコツとやっていこうと思います(笑)

 

 

という事で、

今回も長くなりましたが(^^;)、

私なりに良い気づきがあったなと思えましたので、

良かったことにします(笑)

  

 

クルクルクルクル…と円を描きながら、

少しづつ、

上に上がっていけたらいいな。

 

 

最後までお付き合いいただき、

本当に本当にありがとうございました。

 

 

あなたの『今日』という日が最幸な1日になりますように!(^O^)

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