才能がある、についての考察
人はすぐ「才能がある」とか言う。
そういう人は多分、自分に「才能がある」とは思っていない。
自分は「才能がある」とは言わない。
自分は「才能」について、「使うもの」であって、「気づくもの」であると思っている。
才能は目には見えないし、一目で「ある・なし」なんか判断できない。
誰かの才能に気づくことのできる人間はそいつに負けた人間しかいない。
自分の才能のなさに気づくことのできる人間もまた、誰かに負けた人間しかいない。
誰かに勝ったとしても、自分の才能に気づくことはないだろう。
だから、「才能」は「怖いもの」だと思う。
ただ、これは自分に才能がないことに気づいた人間の感想に過ぎない。本当に才能がある人間はこんなことを思わないのかもしれない。
なんでこんなことを書いているのかといえば、すごく印象的な出来事が重なったからである。
自分はあまりオリンピックを楽しんで観るタイプの人間ではないが、連日報道される羽生結弦さんの「あのインタビュー」は流石に心にきた。
あれだけカメラにたかられて、「報われない努力もある」と伝えることがどれほどのものなのか、画面の向こうの自分には計り知れない。
ただ、お茶の間に「消費されてしまった」ことはわかる。
おそらく羽生さんが感じた自分の才能への絶望に気づく人間はいない。
僕らが気の毒だと思う何倍も苦しいんだろう。
才能は恐ろしいものだ。
そこに重なったのが将棋の棋士渡辺明名人の王将戦での敗戦である。
自分は将棋が好きで、昨今の藤井フィーバーよりも少し前から将棋を追いかけ始めた。自分は生粋の羽生善治ファンで、だからこそ自分にとって渡辺明といえば、常に羽生さんの前に立ちふさがる新世代の代表の一人だった。
やがて羽生さんも衰えが来たのか、苦しそうに苦しそうに将棋を打つようになった。それと反比例するように渡辺さんは猛烈に強くなっていった。
将棋界のトップは名実ともに渡辺さんかな、と思っていた矢先である。
あの天才少年はいとも簡単に将棋界のトップを粉砕してしまった。
粉砕にちがいない。凄い衝撃だった。
「5冠というすごい存在がいても、対戦相手が強くないと面白くないので、その責任を果たせなかったのは悔しいし力不足を残念に思います。」
自分が最も印象に残ったのは渡辺さんがtwitterに書いた文章のこの部分である。本当に恐ろしくて、なんだか自分まで落ち込んでしまった。
渡辺さんが感じた絶望を、おそらく自分は1ミクロすら理解することができないのだろう。どんな同情も、彼の本心に届くことなどないのだ。
けれど、渡辺さんがここまで書くなんて、という思いで胸がいっぱいになった。
自分は彼の苦しみを全く理解してあげることができないのに、この言葉を受け取って、同情することが恥ずかしくなってしまった。
才能の世界で生きる人たちは、本当に凄いし、寿命を削ってしまっているのではないだろうか。
羽生結弦さんも渡辺名人も、いわば「天才」と呼ばれるに等しい人たちである。その人たちが自分の才能に絶望して述べた言葉を世の中は単に消費していいのだろうか。
次また頑張って、などと言えるのだろうか。
ましてや、よく頑張ったねなんて言えるのだろうか。
ここまで書いて、ふと気づいた。
そんな世界で何年もやってきた人間なのだ。
孤独で当たり前なのかもしれない。
才能があるということは、孤独であるということなのかもしれない。
そして、才能のある人間は、たまに負けた相手に挑み直すことがある。
もう一度、あの絶望を味わうかもしれないのに。
それは端から見ると、リベンジに見える。
でも、もしかしたら勝負に取り憑かれているのかもしれない。
自分の感想はこうだ。
どちらにしても頭がおかしい。
才能に打ちのめされて、また打ちのめされに行くなんて。
才能は怖い。
才能がある人間は、才能のために人生すら捧げてしまう。
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