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よふかしのうた

暦、日付の概念はよく出来ているなぁと思う。
太陽が昇っている時間に活動して、月の光の中で眠りにつく。動物の本能を人間なりに可視化したものが暦や日付なんだと思う。

考えすぎてしまう自分にとって、夜は友であり、敵である。

夜が一日の区切りとして染み付いているせいで、「あんまりだった」一日を寝ることで区切ることができない。
だから、寝付けない。天井だけをずっと見つめる無の時間に耐えきれずに、布団から出てしまうのだ。結果寝不足。

今は特に朝起きることを目標の一つにしているので、上手くいかないと少し落ち込んでしまう。なので、寝れない日の自分にとって、夜は敵である。

寝れない時は決まって出かけることにしている。
大学の頃は近所のファミレスに通っていたが、コロナ禍の中で深夜営業をやめてしまった。
あの深夜営業が多くの夜更かしたちを救っていたことにすかいらーくグループは気づいて欲しい。

今は専ら漫画喫茶に行くか、少し遠くのコンビニまで歩いている。下手すりゃあ、駅まで歩いて始発に乗って、大学の方まで向かってしまうことがある。

皆が活動をやめ、寝息を立てる夜の街をポツンと一人で歩く時、夜は友に変わる。

マスクも堂々とはずせるし、何なら独り言をぶつぶつと述べていても良い。
まるで時の止まった世界のようだ。

夜の街を歩く時に欠かせないのは、深夜ラジオである。
番組に差はない。
ただし、生放送に限る。

話の内容を聞くのではなく、誰かがどこかで喋っていることを感じる。だから、生放送でなくてはならない。

適度に知らない音楽が流れるのも良い。
こちらは普段聴かない曲ほど、歌詞に耳を傾ける。
深夜ラジオの作り手たちも、そんなリスナーを多かれ少なかれ想定しているのだろう。
たまにばっちりと刺さる曲が来た時にえも言われぬ感覚に襲われる。
そして、その曲をもう二度と聴くことはない。偶然の出会いに一番意味があるからである。

昔、一本の脚本を書こうとして、死にかけたことがある。
出来上がったその作品はまさに吐瀉物のように醜い形をしていたが、当時の自分という人間を最も表現するものであり、まさに分身であった。
独りよがりという批判も受けたが、自分という人間の100パーセントを表現できたと感じる作品に仕上げられたのは評価されても良いと思う。自分にとって最高傑作だ。
それを誰かに演じてもらい、観てもらう。今から考えれば、こんなにも幸せな創作体験ができたことは幸運だった。

創作とは自分の身を切ることにある。
そんな気がする。
二度とあんなものは自分から出てこない。

毎日、昼は大学で、夜はファミレスで脚本について考えた。上でも書いたように、あの脚本は自分だったので、ひたすら自分と向き合った。
考えて、考えて、考えて。眠れない。眠らない。
そもそも睡眠時間なんかいらなかった。
ずっとその脚本のことだけを考えた。

けれど、人間の体力は有限なので、最終的に帰りの電車で力尽きる。温かい座席下のヒーターの風と今まで何億回と誰かの体を受け止めてきた座席のクッションが自分を抱きしめてくれた。
眠りに落ちる。

いつも駅員の声で目が覚めた。
そして、最寄を遥かに過ぎた終点駅に放り出された。
仕方がないので、のんびりと家に向かって歩く。
一限が始まる少し前に家に着くので、少し寝てからまた脚本を書いた。
我ながら訳の分からない生活をしていた。
よく体を悪くしなかったなと思う。
精神はやや擦り減ったが。良い思い出だ。

この家に向かって歩く時間、それが自分と夜の街との最初の出会いだったと思う。
番組を問わずに深夜ラジオを聴き漁り始めたのもこの時からだ。
コンビニの明かりが、どれほど人に勇気を与えるものであるかに気づいたのもこの時である。

夜の空気は澄んでいて、一歩踏み出すと街の息吹が体の中に流れ込んだ。

きっと明るくて、人の沢山いる街を歩いても、こんな体験はできていない。
夜があって良かった。
夜を歩いた先に今の自分がいる。

暦や日付の概念はよくできている。
必ず明日がやってくる。先に進む。
夜に考え、自分と向き合って、朝の光と共に前を向く。
夜は昨日までの自分の区切りなのだ。

家に着く少し前。
朝焼けの空はオレンジ色に輝いていた。
答えは出た?と聞かれているようだった。
昨日よりは少しマシ、と答えた。

自分はもう今日の自分になっていた。

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