ウルトラマンと私

また久々にnoteに帰って来れた。
本当に忙しいと、余計なことを考えている暇もないことを痛感する。余計なことってのは少し言い過ぎかもしれないが。

さて、シン・ウルトラマンを観た。
観たが、考えることや思うことが多かったので、ここらで決着することにしよう。ネタバレ御免。

まず、大絶賛ではない。
小賛くらいだ。

面白い場面は多数あったし、ウルトラマンを現代に蘇らせた点で、とても上手いなぁと感じた。特に赤線が入る前のウルトラマンのデザインは絶品で、口の気味悪さとても良かった。

一方、良くないところも目立つ。
特に浅見さん周りの描写はノイズ。多ノイズ。いらん。

自分は『働きマン』のファンでもあるので、他人のキャラ使うなら(いくら夫婦とはいえ)もう少し敬意を払えと思う。

あと、オッサンが過ぎる。マジでオッサン過ぎ。そんなので喜ぶのオッサンしかいないからって感じ。特に実写だとノイズになるなぁと思う。アスカやマリだと気にならないのにね。不思議だ。

まあ、普通にいらないなぁと思ったのはこのくらいで、他のもやもやは多分解釈違いかな。時間不足もあるかもしれない。

どういう解釈違いか。
「ウルトラマンに対する憧れ方の違い」だと思う。

多分、「ウルトラマンになりたい」庵野・樋口世代と「ウルトラマンに救われたい」自分達世代の違いなのだと思う。世代は言い過ぎかもしれんが。

ゴジラは災害のメタファー。これは3.11やコロナを経験することで、世代を超えて共有できる問題だ。だから、みんなで乗り越えていくというテーマに乗りやすかった。

では、ウルトラマンのメタファーは何なのか。
ウルトラマンは神であり、外星人。

つまり、自分の足で立ち、問題を解決する大人と他人との間でコミュニケーションの取れず、自分独自の趣味を崇拝するオタクのメタファー。

これは自分たち世代(少なくとも自分には)刺さらなかった。とてもじゃないが、自分自身がこの困難な時代を、絶望的な状況を打ち砕く光の巨人になる姿を想像できない。

自分はただ、助けてほしい。それだけだ。

軟弱な物言いかもしれないが、自分にとってウルトラマンはそういう存在だ。「なる存在」ではない。「助けてくれる存在」であるだけだ。

自分が欲しいのは、「無敵の自分」ではない。「寄り添ってくれる」「救ってくれる」他者だ。

一番の絶望は孤独だ。孤独を受け入れ、一人ウルトラマンとして戦うことができない。応援したい。都合の良い言い方をすれば、一緒に戦いたい。

シン・ウルトラマンは少なくとも自分の問題意識に寄り添う映画ではなかった。これは庵野秀明がウルトラマンになる映画だった。

だから、これで良いと思う。
自分にとってのウルトラマンは各々の中にある。

最後にゼットンの話。
シン・ウルトラマンがどうやって幕を閉じるのか。そんなのもう見る前から分かっていた。ゼットンがやってくるんだ、と。

やはり、ゼットンはやってきた。
ただ、自分の思うゼットンではなかった。

これは良くないなぁと思うんだが、思い入れがあると、ちゃんと映画を観れない。ゼットンのところ、ゼットンのところがもっと自分に寄り添ってくれれば、この映画をもっと楽しめたはずなのに。……致し方なし、作った方の勝ちだ。映画を作れるほどの存在になったもん勝ち。


だから、こっからは自分の欲しかった理想のゼットン話。

昔からずーっと、ウルトラマンは地球に縛り付けられているのだと思っていた。つまり、「人間を助けるという輪廻」の中に閉じ込められている存在だと思っていた。

ここだけ見ても、自分がウルトラマンを他者として捉え、「理想の自分」の延長上にある存在だと考えていないことがよくわかると思う。

苦しいから助けて欲しい。根底にある思いはそれにちがいない。
だが、子供の時に初めてゼットンの回を見たとき、圧倒され、マットに沈んだウルトラマンを見て、えも言われぬ安心と開放、そして感謝を感じた。

気がついたら、涙を流していた。
ウルトラマンが倒されて悲しかったのではない。
恐ろしく強いゼットンに恐怖したのでもない。

ホッとしたのだ。
ウルトラマンが、この永久的に続く救済の輪廻から解き放たれたのだと安心した。そして、この輪廻から彼を解放したゼットンに感謝の念を抱いた。

決して正しい読み方をできているとは思っていない。けれど、子供心ながら確かにそう感じた。

自分は「終わらない作品」に魅力を感じていた。アンパンマンもそう、サザエさんもそう。ドラえもんも、クレヨンしんちゃんも、「終わらない」。
見ている僕らを一人にしない。そんな作品たちだった。

ウルトラマンを見て、初めて「終わらない」ことに恐怖した。
このまま、ウルトラマンは自分を救い続けてくれるのだろうか。
じゃあ、ウルトラマンの人生は本当に豊かなものなのだろうか。
もし自分だったら、発狂している。

自分たちのわがままでウルトラマンを縛り付けて良いのだろうか。

変な子供だなと思う。思うが、今も心の奥でそう思っている。

だから、自分にとってゼットンはウルトラマンにとっての救いだった。
輪廻から解き放つ、唯一の存在だと思っていた。

映画の中で、ゼットンは光の星の所有物だった。
文明のリセットを司る、まるでシヴァ神のような存在だった。

理屈はわかるなぁと思うし、良い設定にしたなぁとも思う。ゾーフィーにも繋げやすいし。何より、トップをねらえ!感がひしひしと伝わった。

人類とウルトラマンへの最大の課題という原作での役割も色濃くなった。

ただ、自分の思っていたゼットンの解釈が入る隙間はなくなってしまっていた。あまりにも詰められた設定がそれを拒んだのだ。

聖典の解釈みたいなもんだろう。やっぱり自分にとって、ゼットンは聖典から自分が読み取った「あのゼットン」であって欲しかった。

意味もなく理不尽に登場し、理不尽にウルトラマンを圧倒する。
そこに解釈の余地があったのだ。今作みたいに「答え」を提示されると、うーん、自分は違うのになぁとなってしまった。

もちろん、初めて見る人にとって、明確な「答え」が提示されるのは良いことだと思う。だから、映画的には悪くない。

自分はゼットンを好き過ぎた。それがいけない。


自分が信じる神を、他人も信じているということは幸福なことでもあるが、信じ方は人それぞれなのだと思う。映画を見るのは大変だなぁ。

仮面ライダーには別に思い入れがないので、健全に見れると思う。

あと、ウルトラセブンも実はそこまで思い入れがないので、次回作も楽しみにしています。庵野監督。樋口監督。オヤジ趣味はそこそこにしといてください。

そんな感じ。

そんなにゼットンが好きだったのか、自分。
映画を見た率直な感想です。



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