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「或る声」モデル:碧河那風衣さん

形式的な話し合いを終え、刑事を名乗る二つの背広は帰っていった。少し緊張はしたが、明らかな自死であることが告げられると、いくらか安心することができた。仕事も順調、人間関係のトラブルもないあの人が雑居ビルの屋上から飛び降りたのは二日前のことだった。事件性があればその数時間後にでも恋人である私の家に刑事達は乗り込んできたであろう。しかしながら二日経って訪れたということは彼らにとっても彼の死は無関心に近いことなのだ。ソファー用のローテーブルには彼らが飲み残したアイスコーヒーがまるで寄り添う夫婦のように、取っ手を背にして並んでいる。

 若草色のカーテンをタッセルでまとめる。テレビの警察組織密着番組で観たように警察官は朝早くに訪れるというのは本当だった。 といっても日曜日の午前九時。社会人であれば目が覚めてしまう時間だ。窓の向こうには多くのビルが建ち並ぶ。五階建て、三階建て、あのビルなら彼は助かっただろうか。ビルの背比べをして考え込んでしまっていた。

飲まれなかったコーヒーを片付け、若草色のソファに座る。私は淡い色が好きだった。そして統一感が好きだった。それは彼も同じだった。生きていれば、私の二十六の誕生日に指輪をくれたに違いない。彼の部屋から紺色のビロードの箱に入ったダイヤの指輪があったと彼の母親が教えてくれた。私はきっと不幸な人間の部類に入るのだろう。だけれども、私の心は満たされていないだけで、悲しさや寂しさとは少し違う感情を抱いていた。

 今日はどこかへ出かけよう、とクローゼットを開けると、どこからか声が聞こえる。
「どこに行くの?」
 声はクローゼットの中からも、私の背後から聞こえたように感じた。
「お買い物よ」と私は臆せず答えた。
「また逃げるの?」
 声の主はどこにいるのだろうか? 私は何を着ようかと、曇天の肌寒い夏に戸惑いながらしばし考えていた。
 小さな少女のような声。時に私におやつをねだるように、時に大気が凍りつくように、さまざまな温度で私に語りかけてくる。
「もう、逃げられないよ」
 そして、この声は何かを知っている。

 私の想定通り、雲は東に消え失せ、かんかんと日差しがアスファルトを灼きはじめた。私は白のフレアシャツに軽く微笑んで、少額の宝くじが当たったちっぽけな優越感のようなものを得た。
「やっちゃいました・・・・・・」
 私が入ろうとしている商業施設の軒先で、相手に見えていないのに携帯電話にひたすら頭を下げる若者がいた。冠婚葬祭で着るような真っ黒のスーツに綿のワイシャツ、安っぽい煌めきを放つ赤いネクタイ、きっと新卒社員なのだろう。これも経験だ、頑張れ、と心の中で彼を励ました。
「次は彼にするの?」
 少女の声。私は彼へのエールを取り下げ、施設へと入っていった。気分が悪い。

「何を買うの?」
 なんでもいいだろう、と私は虫を払う仕草をして少女の声を追い払おうとした。今日はいつにも増して彼女がしつこく問うてくる。
「あの人はもういいの? 次はどれにするの?」
 しつこい。どこかに行って。私は少女を突き放す。
「また、捨てるの?」
 気分が悪い。トイレに行こうと立ち止まって辺りを見回していると、私の白いシャツがまだらな褐色に染まった。

「すみません!」
 床に四つん這いになった男が謝ってきた。紺色のジャケットにノリの効いたワイシャツ、ネクタイはふっくらとしたシルエットが完璧に際立つ花柄のネイビー。木製のフロアタイルには私のシャツと同じような色の液体が拡がっている。
「あぁ、すみません、クリーニング代はお支払いしますので・・・・・・」
 彼がハンカチで私の白いシャツを拭おうとする。しかし、胸元から腹部にかけて汚れてしまったが故に、彼の手つきは虚空を舞った。
 焦りで乱れてしまったのか、グリースで固めた清潔感のある七三分けから、いささか前髪がおでこに垂れてしまっている。玉の汗が顔全体を覆っている。
 身長は、百七十五センチはありそうだ。私より十センチ以上も高い。今背伸びしたら唇を重ねることができそうだ。
 顔もほりが深く、黒縁眼鏡をかけてはいるが、外しても十分に利発そうだ。
 何かスポーツはしているのだろうか。上半身がただの華奢ではなく、鍛えられて無駄のない洗練された肉体に見える。
「この人だね」
 私は彼の手をとり、持っていたハンカチをそっと奪うと、ほんの少しコーヒーを浴びた首筋を拭って彼に返した。
「すみません」
 それが怒りの態度だと思ったのか、彼は一歩後ずさって再度深々と頭を下げた。
「いいの、大丈夫」
 私は一歩前に進む。彼はたじろぎながらも直立し続ける。また、唇が重ねられる距離になった。
「クリーニング代は結構です」
 私は朱色のハンドバッグからレースのハンカチを取り出し、彼の額を拭ってあげた。
「一緒に、替えのお洋服を選んでくれない?」

 雑踏の中でかき消える、二つの声と同じ言葉。

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