頭の中に言葉が浮かぶ時、そのフォントはなんですか?

Twitter(X)で衝撃だったこちらの投稿。

私は頭の中に常に言葉が浮かんでいる。頭の中をよぎっている思考は、すべて文章化されている。けれど、フォントなんて気にしたこともない。確かに言葉が浮かんでいるのだけれど、想像してみても、その文字のフォントがわからない。ポップ体ではないことは確かだと思う。明朝体…?だめだ、意識してみても、言葉のフォントは全くわからない。フォントがわかる方はぜひ教えてください。

私の頭の中は、単語がぽんぽんと浮かんでくるというよりは、文章が絶えず流れているイメージが近いと思う。水に浮かんでいるのではなくて、常に流れている。思考が止まらないときは、頭の中が文章で埋め尽くされて、飽和しているような状態。だから、吐き出したくなる。書きたくなる。何を書こうかと悩むことはあっても、言葉が出てこないことはまずない。隣の人と雑談するのは苦手なくせに。

頭の中で映像化はしていない、というよりできない。自分が文章を書いていても、小説を読んでいても、文章は文章のままで頭に入ってくる。
でも、頭の中で図式化はしていると思う。例えばNoteを書くときは、まずは頭の中に浮かんでいる文章をそのまま吐き出してみる。そしていつのまにか頭の中に作成されている構成図にそって、文章をパズルみたいに並べてみる。過去の記憶を思い出しながら書いていても、それは映像化はされていない。
言葉という概念がずっと流れているイメージなので、その文章が音声再生されているかというと、それも違う気がする。


上記の話と因果関係があるのかわからないが、私は映画が苦手だ。相当集中しないと、ストーリーについていけなくなってしまうから。映像を見ていると脳内でツッコミ始めたり、思考が止まらなくなってしまって、頭の中が言葉でいっぱいになる。その内に映像がどんどん進んでしまうから、ときにはストーリーについていけなくなる。何も考えずに目の前の映像を見続ける、これができない。

文章は一目で情報が入ってくるから、自分の頭にそのままのスピード感で入ってくる。だから私は映画より、本を読むことが好きだ。本は思考が止まらなくなったら一度閉じてしまえばいい。言葉でいっぱいになっている私の頭の中を、一旦整理してあげる。この整理の時間も愛おしい。

本を読んでいる時も文章がそのまま頭に浮かんでいるから、映像化はされない。たまに静止画が浮かぶときもあるけど、情景という「イラスト」が思い浮かぶ感覚はあまりない。
私は活字中毒だけど、好きな文章もあれば苦手な文章もある。プロの作家に対してですら、好き嫌いはある。好きな文章の場合は透明な水の中を流れているようで、苦手な文章のときはその水が濁っている。その濁り度に比例して、苦手な文章だなと感じる。
…でも、やっぱり文字のフォントはわからない。

Noteを読む人も、書く人も、頭の中でどんな風に再生されているのだろう。
とても興味があります。この記事に共感してもらえるのか、それとも全く共感してもらえないのか。
とはいえ、私はこの記事すごく書きにくかったので、何を言っているのかわかりにくいかもしれないなあ…。

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