強い言葉とギャップについて
年は暮れるけど、考えることはやめられない。
時間は過ぎていくけど、「あっという間だったね」の一言では済ませられないいろんな言葉と考えが過っては消え、消えないように書き留められ、書き留められては共有され、そして共感を呼んだりまたそのまま消えたり。もう一回言うけどそれをあっという間では表せないからな!!!と、12/31の自分に言い聞かせたい。
強い言葉が嫌いです。
特に定義はないけれど、私が考える強い言葉っていうのは「愛する」「鬱」「病む」「(性的な意味での)抱く」「(本来的な意味での)死ぬ」「悪口全般(頭おかしい、狂ってる、ふざけるな、等たくさんある)」「一生」「絶対」「普通」「結婚」これに色をつけるのならば、赤と黒のコントラスト、暗い色に合わせる強い黄色、黒にグレーにまた漆黒、又は真っ白。表現で言うと、派手な目元、(なぜか親密度を表すためになされる)暴力、具体化できないということ、インスタに載っている食事だけの写真、ticktok、カラオケで派手に暴れること、他の人に気づかれる素振り、複数人の前で感情的になる、などなど。
わかってる。だめなものはない。そして自分もそこに当てはまる時がありうる。わかってる。
でも、でもやっぱり、私は25になっても、こういう強い言葉や振る舞いに嫌悪感が止まらない。ある面では好きな人、尊敬する人、関わりを持ち続けたい人であっても、他の面にこのような強い部分があると、(苦手だな)って心の中で思っちゃう。だからやめてくれとも思わないし、だから悪口を言いたいわけでもない。心の中で消化する、又はこうして文字にして消化する。それだけだと思っている。
強い言葉は、悪い言葉ではない。言葉は指し示す意味を含むから、その意味があまりにも自分の身の丈に合わないと思うとき、嫌だなって多分感じている。
赤と黒のコントラストな生活をしている人は、身の回りには少ない。だからそういう取り合わせで何かを表現している時(表現は自由だ。でもその人の今ではないと感じる時)、あぁギャップだと思う。ギャップっていうのは、その表現と、その(表現する)人の差異のことだととりあえず考えている。
作品なら良い。作品は作者とは関係ない(としても良い。)だから、私はあのちゃんのギャップを許している。あのちゃんのギャップは、作品と、一般のギャップ、作品と、容姿のギャップ、キャラクターと、本来彼女自身が持ち合わせている(であろう)真人間とのギャップだから。
でも毎日使われる表現は違う。誇張とわかっていない間に誇張する、本当はできないくせに死という言葉を使う、暴力から親密度は上がらないのに暴力を手段にコミュニケーションをとる、悪口をできるかぎり膨張させる、結婚の話題を振る。全部ちがう。全部、あなたを、あなたの生活を、そしてあなたの今を表すには、相応しくない表現方法なのだから。使う言葉が強いほど、本人と、その人が発する言葉の間に生まれるギャップが大きければ大きいほど、私は落胆する。ちがう。どうした目を覚ましてくれ。わたしが好きなあなたは、今開いた自動ドアの音が漫才やるときの「ウィン」そのまんまだったという的確な例えとか、空の色がとてつもなく綺麗だったという感想とか、笑う時の目尻の皺とか、どうしても相手のことを好きになれない葛藤と罪悪感のせめぎ合いを言い表せないなりに飲む水とか、そういうことなのだから。
強い言葉は、本当に強くそう感じた時に、出し惜しむように静かに使いたい。だって、今本当に強くそう感じていないのに、愛するも死も結婚も、その周辺のことも、はっきり定義できるものじゃないのだから。
すべては私の生きたい見方に寄っている。こうして文字にしてみると、私はなるべく穏やかに、なるべく中庸に生きたいのだなぁと、ひとつ発見する。
最後に気持ち悪いこと書くけど、言いたかったことのちょっとしかうまく書けなかった感覚がある。言葉を選ぶ必要性は尽きないね。
2023.12.29
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