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記録する48

ファンタスティック・プラネットを観た。

王道SF映画だなと思いながら観た。これを観ながら私自身の無知を感じた。プラネタリウムを観た後のような気分。巨大な青い生き物と人の話で、ちょっと進撃の巨人が頭によぎることもあった。人の顔が巨人に似ていた気がする。

青い生き物の暮らしから人の暮らしまで、今の生活と被ることが少なすぎて、絶えず情報を吸収しながら話を観ている感じだった。巨大生物とそれにあった大きい生き物たち。人にとっては大きい生き物や、人ぐらいの大きさの生き物たちもいた。人より小さい生き物も。天気や季節もあって、雨の規模は現実の雨の規模と同等だった気もする。

アリが主人公の映画を観たことがあるけれど、その映画では雨は大きかったなあと思い出したり。地平線の描写も難しいなとも。自身より眼球の大きい生き物からは地球はどう見えるのかなとか考えていた。

そうすると、自身の見えているものや規模感に頼りすぎた生活をしているなと感じてきて、知らないことが多いなあと思えてきた。もし今ある自然のモノの規模が全く違う世界があったらどういう物理法則があって、どういう生物が生きているのか、なんてことは全く想像もできないと感じた。例えば、雨粒が異常に大きい世界だったらどうなのだろうか。もう少し重力を感じない生活になっているのだろうか。そんな世界で人は存在できるのだろうか。わからないことだらけだ。

そんなことを考えていると、今見て起こっていることって実はどうでもいいことなのかもしれない、と思えてくる。これがプラネタリウムを観た後の感覚だ。地球の誕生について話されると、人の存在って限りなくどうでもいいと思えてくる。なので結局生きているだけでいいのだ、に繋がってくる。

それにしても宇宙の在り方はやっぱり不思議。結局のところ球状の物体が集まった世界になってしまう。人の思考から離れてもそれは普遍的なのかもしれない。どこかに発光していたり、していなかったりする球状の物体が浮かんでいて、それが無数に存在している。どこにも真っ平な世界なんて存在していないのである。

地平線や水平線はいつも曲がっていることは変わらない。ゲームでも、もうそろそろで平面のオープンワールドではなく、球状のオープンワールドが出てくるだろうな。そしたらもっと自由になっちゃう。楽しそう。塊を転がすゲームで地球の周りを転がったような記憶もあったりなかったり。調べてみると、もう球体のオープンワールドはあるみたい。すごいな。

知らない世界で知らない発展をしていく。どうなっていくんだろう。なんだか話が大きくなってしまったけれど、今日も今日とてモンスターを育てるために眠っている。このモンスターは架空の生き物で存在しないのに。でもついやってしまう。実際睡眠時間は伸びているので悪いことではないし。なんだかんだ今生きていて、やりたいなと思うことをやっていくことが大事なのかもしれない。それがどんなに存在として小さなことでも。

私が生きることができるようになります。