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記録する177

アーカイブの先

記録が大事なのか。残すことが大事なのか。むしろ残ったものがあるだけで、残そうとする意思というのは非常に脆いものなのではないのだろうか。

残したいより、作りたいを優先した制作が大事なのではないか。残そうと思えば残る。残したいと思っても残る。残らないモノを残して先に繋ぐこともできる。作るという創作意思のもとで、思考し、実験し、作品を作っていくことが大事なのではいか。

このような記述をしているが、結局のところまだなにか見えていないものが私の中にあるのだ。何もわからないまとめサイトみたいで嫌になる。

残したいだけでは足りなく、結果として残ったものだけでも足りない。それはいいかえれば地域創生のための作品でも、美術館で仰々しく飾られている作品でもないな何かを求めているのである。

どういう作品を作っていけばいいのか、何か実験的な作品を作りたいのか、何が作品で何が作品ではないのか、そのような足りるものと足らないものの境目を見つけようとしている。

一方で境目があるような二元論的な話ではないことも、多くのアーティストが説明している。

どのような作品が芸術であり、博物的価値から切り離されたモノになりうるのかは問われ続けるのであろう。答えが見つかればそこが特異点となり、作品の見え方や作り方が変わっていくのだろう。

歴史、社会、世代、地域、家柄、資産家、その他諸々と共同で作品は作られる。いい作品を作ったとしても鑑賞者からは非難されることもある。この先に生まれる作品の贄になろうとも、やることは作ることだけなのだろうか。

私が生きることができるようになります。