見出し画像

記録する98(声に出したい日本語53)

「わたしのからだは心になる?」展

SusHi Tech Squareで開催されている「わたしのからだは心になる?」展を観に行きました。

身体論とか存在論とか流行っているのでその類の展示かなと思って観にいきました。ただ、どちらかというと、身体性に関するデザインの展示だったかなと思います。

デザインの話とかリモートで繋がれる世界での新しいコミュニケーションの仕方や、遠隔で操作できるのは人以外も可能なのか?などの話が多かった印象を持ちました。

印象的だったのは私の身体は何になるのかという問いでした。その場で何になるんだろうと考えたんですけど、全然面白いことが浮かびませんでした。私の身体は私の身体のままで、他の何かになるなんて考えたことがありませんでした。まだ幼虫のような存在だから成虫になる、みたいな感じなのでしょうか。

「何にもなれなかった君へ」というフレーズはよく聞きます。人は何かになれる可能性があるので、あなたは何になりますか?という問いに答えるのは簡単だと思います。突飛な回答だと犬になるとかでいいです。犬系〇〇などいるので、無理な話でもないと思います。ただ身体は難しい気がします。

私の身体は老人になる。あり得ますね。私の身体は半身不随になる。この可能性もあります。私の身体が何かになるとしたらそのくらいでしょうか。もしかしたら、技術の進歩によってサイボーグになったりするかもしれません。

ただ心にはならないなと私の中では思いました。心は心、身体は身体という概念の枠組みがあるので、それらが成り代わることは難しいと思います。私の身体の一部に心はあると思います。心の一部も身体にあると思います。その2つに干渉はあっても、代替可能ではありません。

こう書いているとだんだん展示の意図がわかってきた気がします。

現段階で「オンラインでの生活」というのがあります。その世界に入ると「私」の「身体」は捨てられて媒体には「心」のみが投影されるのではないか、ということだったのかもしれません。

ですが、私の身体ありきで媒体に情報が送られるので、身体はやっぱり必要です。コミュニケーションツール内での「私」と実際に存在している「私」の間にはまだ壁があります。どっちが私なのか分からなくなる、みたいなことは起きていません。

媒体内の私は編集された私なので私とは一線を画しています。たとえ、それがこのnoteであっても、日記帳に書いてあったものでも、それはいつでも偽日記です。

完全な客体性など主である私には難しい話なので仕方ないです。

メディアの中では私の身体性はないので、「(編集された)わたしのからだは「軽やか」になる」くらいならあると思いました。

紙の本をペラペラするお兄さん

電車の中でぼーっとしてたら隣のお兄さんが本を読んでいました。しかも紙をずっとペラペラしているんです。すごく気になっちゃいました。その行動の目的はなに???と考えを巡らせましたが分かりませんでした。まだ私の理解の範疇を超えてくる人は多いですね。このお兄さんも私の気になった人リストに登録です。おめでとうございます。

スケッチOK

語呂がいいです。スケッチOKなのも嬉しいです。この言葉は好きなので、声に出したい日本語にします。以上!

私が生きることができるようになります。