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蜷川実花展

虎ノ門で開催されている蜷川実花展に行きました。久々の虎ノ門ヒルズでした。いつもハイソな空間で、もう少し敷居を低くしてもいいのになと思いながらやってきました。

意外と見た目だけの高級感な可能性も否めないので、しばらくは様子見です。新しい建物なのでハイソな感じがするだけかもしれませんし。しばらくしたら六本木や表参道みたいに街に馴染んでくるのかなと思います。

蜷川実花展は事前にナム・ジュン・パイクみたいな展示があることは知ってて少しドキドキしながら行きました。

実際に行ってみると思ったよりコンセプチュアルな空間でした。展示空間に入ってからは手に持ったパンフレットの文章を読みながら展示を周っていました。展示の説明はキャプションがあるわけではなく、パンフレットに説明が書かれていたので、そうせざるを得なかった感じです。

展示を観て、パンフレットを見て、所感とパンフレットに書かれている文章の内容を擦り合わせながら鑑賞していました。

コンセプトは瞬間と永遠についてだったと思います。写真を撮っている人ならではの考え方だなと思いました。瞬間を永遠にするのがカメラなので、きっと今とか永遠とかについては色々と思うところがあるのだろうなという感じです。

瞬間の表現に花を使うのは面白かったですね。花ってドライフラワーとかになると永遠を意味してきたりします。ただドライフラワーの状態は枯れた状態にも近いので、ある意味ではすでに終わりを迎えているような印象を与えます。

終わりを迎えた状態がずっと続くというのは、やっぱり写真の性質に似ている気がします。なので花を使ったのかもしれません。永遠とは本当に永遠なのか、花を通して考えていたのかもしれません。

永遠の状態をずっと続けた先に一体何があるのでしょうか。残しておいてなんになるのかは気になります。永遠の美しさの保持というのは、無意識に大切なことだと認識していましたが、そこにあまり価値はないのかもしれません。

バタフライエフェクトの話もあったので少し思ったこともここに書いておきます。

バタフライエフェクトを起こしたいのであれば、なるべく残るものを作らなければならないのかなと思いました。作るものを増やすというのもありですが、長期的に考えると永遠に残るものをいくらか作った方が誰かに影響を与えそうな感じがします。

元々長期的に影響のあるものだったらバタフライエフェクトにならないのでは?と疑問に思う方もいるかもしれません。それもあると思います。ただ、一方で何に影響を与えているかわからないけれど、誰かが「目にする」機会を増やすことで、目にしたことから大きな影響の始まりが出てくるかもしれません。

案外、瞬間瞬間の対話やコミュニケーションより、永遠に残る呪物のようなものの方が、後世に影響を与えるかもしれません。

私が生きることができるようになります。