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ボーは恐れているを見た。

アリ・アスター監督の「ボーは恐れている」という映画を観た。とても良かったので、皆さんにも観ていただきたい。何度も観たいと思った作品だったので、初めて見た感想をここに残しておく。

※注意点

R15作品。
この記事にはネタバレを含む可能性があります。

大まかな感想

かなり好きな部類の作品であった。主人公は親を亡くし、その親の葬儀に行きたいものの、なかなかいくことができない。最終的に、葬儀に到着したけれど、なぜもっと早く来られなかったのかと、主人公のこれまでの生き方を含め責められるという映画だった。

母親を亡くし、そのときには涙は出ずに、呆然と立ち尽くしてしまう主人公にはどこか見覚えがあった。それはカミュが書いた「異邦人」の主人公である。あまりそこに引っ張られるのは良くないなと思いながら見ていたが、最終的には異邦人の要素が非常に多い映画だと感じた。

観劇をし、女性との性行為もあり、裁判もある。異邦人尽くしである。ここまでくると不条理をテーマとした映画だと思わざるを得ない。実際、不条理がテーマであったとも思う。

ボーは親と会いたい気持ちはあるけれど、その反面会いたくない気持ちもある。会いたいというよりかは、「会わないと怒られてしまうから、会わなければならないと思っている」という状況に近いだろう。実際に会いに行ったら責められていたし、そういったことが心の奥で嫌なのだと思う。だからといって親が嫌いなわけでもなく、親のためにいい子でありたいが故に少しの会いたくなさがあるということだと思う。

そういった心境に加えて、実際に親に会いにいくという目的を達成するためには障壁が多い。会いに行こうと思った日はなかなか眠れないし、寝不足のせいで寝坊をしてしまう。他の便を取ろうと思うとカードが使えず便は取れないし、処方箋を飲もうとすると水がなくてパニックに陥ってしまう。

何をやるにもうまくいかない。何かをするときには、悪いことが起こってしまうのではないかと常に警戒していないと、本当に悪いことが起こってしまう。リスクヘッジをしないと誰も助けてくれないし、自分でも解決できるわけではない。

そんな不条理がたくさん詰まった映画であった。

ボーは何かを恐れているのは確かであるが、恐れないとどうしようもなくなってしまうというのもある。恐怖し、何か対策しないとどんどん悪いことが起こってしまう。その起きてしまった悪いことも自身のせいだと咎められるし、何をしていくことが最善なのか考えて生きていかなければならない。ただ、やはり、最善だと思っていた選択も本当に最善だったのかはわからない。結果が悪かったら、自身の選択まで遡って悪だと判断されてしまう。

責められることはしたくないけれど、責められられるようなことをしてしまったときには「責められる」こともされたくない。徹底的に「良い子」であり続けるために、恐れなくては生きていけなくなってしまったのかも知れない。

人の選択は必ずしも正解を導けないし、仕方のない選択もある。全ての選択を自身の意思ではできないし、だからといってそれが運命というわけでもない。選択し続けながら生きていくのだけど、当事者の選択のみに責任があると決めつけるのもよくない。積極的に選択していかなければ、選択の自由が奪われることもある。一方で、積極的に選択した人にも、選択した意思があったとは限らない。

人の行いはその人のみで責任を負わないといけないわけではないが、周りにいる誰かが積極的に助けてくれるわけでもない。そういった現状があるものの、それは最善の状態ではないと気付かされる映画であった。

時々現れるポップなシーン

今回の映画では思わず笑ってしまうシーンがいくつかあった。お風呂に入っていると人が落ちてくるシーンや、観劇ぶち壊しマンが現れるシーンは、シュールで面白かった。

これがアリ・アスター監督の優しさなのかも、と思いながら観ていた。そのため3時間ある映画もあまり重たくなかった。3時間の長めの映画を最初から最後まで通しで見るための配慮だったのかもしれない。

人生の裁判

人生の良し悪しを裁くことはできない。
それは人生を終えた時点で死んでしまっているからである。

これまでの行いが良かったか悪かったかは自身で生きている途中に反省する必要がある。あのときの行いに悪意はなかったか、誠実さはあったか、嘘偽りの発言はなかったか、自身で顧みる必要がある。

日々考え方の変わり続ける世界において、善悪の基準も変わってくる。その変わり続ける世界に対応しながら生きていく必要があるのかもしれない。

私が生きることができるようになります。