見出し画像

読書:桜の樹の下には

一つ前のnoteと同様に今回も梶井基次郎の作品を読んでみた。この話は桜が美しいのはその地中に屍体が埋まっているからだと考えている話であった。

二三日前から不安に駆られていたこの作品の主体となる者は、カゲロウの死体を見たために不安を感じているのではないかと感じた。書かれている日数ともつじつまが合うし、桜のみを見てふと思いつくのはあまりにも突飛である。桜が綺麗であったことも少なからず影響を受けているだろうが、数えきれないほどのカゲロウが求愛行動を行い、カゲロウが生きていく中での真っ盛りの状態をすぎると死んでしまう状況を見ていたほうが不安に思うだろう。

桜の木が死ぬことはないが桜もまた春の花が咲いている美しい状態を過ぎれば散って綺麗ではなくなる。文章として書かれてはいないが、二三日前に見た桜がもう散ってしまったので、再び生命の儚さや脆さ、危うさに気づいたのかもしれない。

今回の作品も檸檬と同様に作中の主体は憂鬱を抱えていた。それを取り払うために思考や行動をしているように感じ取れる。それらをありのまま書くのでは陰鬱すぎるので、他の綺麗なもので憂鬱な思考を表現をしているのかもしれない。また、坂口安吾の作品に桜の森の満開の下というものがあるため、桜にはなにか不思議な力があるような気もした。

私が生きることができるようになります。