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記録する45

東京にしか流れていない時間は、確かにあるけど特段東京に限った話じゃないなと思った。

誰かが言っていた。
東京にしか流れていない時間がある。と。
そのときはすごく納得していた。でも不思議でもあった。なぜ東京にしか流れていない時間があるのだろうか。ただ、それは不思議なことではないと感じてきた。

どこにだってそこにしか流れていない時間がある。さらにいうと、個人個人で流れている時間が違うのである。人によって位置している座標が違うので当たり前だった。移動もしているし、身長も違う。心拍数だって違う。知覚している時間や空間というものにそもそも差があるのだ。

福岡にずっと住んでいたのでわからなかったけれど、おそらく福岡にしか流れていない時間がある。福岡に住んでいる人しか見ることができない景色がある。それはどこも同じで、それがある意味では当たり前なのかもしれない。みんな違ってみんな凡庸なのかもしれない。善とか悪とかの二元論でもなく、善だったり悪だったり、良かったり悪かったりしているのだろう。

何でもかんでも正義を貫いていたら八方美人という少し皮肉がこもったレッテルを貼られてしまうし。

こんなことを思いながら歩いていた。傘をさしながら。今日は雨だったので。

雨の日は好きじゃない。濡れるので。でも、今日はなんとなく雨の良さを一つ知った。それは諸行無常的側面である。雨の日に撮った写真というのは、今後もう撮れない可能性を秘めている。同じ立体物の状況、同じ水滴の数、同じ光の差し方なんてものが存在しない可能性がかなり高いなと感じた。

すごく珍しい瞬間に出会えた気がした。日常生活なんてものは、その瞬間にしか存在し得ないものばかりだけれど、その特殊性を感じざるを得なかった。今日はそんな感じで異質性、同質性を感じやすい日だった。

私が生きることができるようになります。