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結婚したいのか、子供が欲しいのかについて考えてみる。

お金の話をすると良く出てくるのがこの話題。結婚したいのか。子供はどのくらい欲しいのか。家庭を持つにはお金がかかるので、お金を貯めなきゃいけないよね、みたいな話もでる。

そうなってくると、結婚をして家庭を持つならば、お金を貯めておかなければならない、と話が進んでいき、お金は貯めるものだと唆される。となると、まず自身に結婚の意思があるのかないのかについて考えなければならない気がした。

私の行動原理は基本的に面白いか、面白くないか。面白くないことに対してのモチベーションがかなり低い。他者と共同の作業であればなんとかできる程度のモチベーションしかない。おそらくつまらないなあと思いながら結婚も子育てもできないような気がする。

つまりは、結婚や子育てに面白みがあるという希望的観測が必要なのである。

結婚に関しては想像しやすいだろう。自身が面白いと思う人と付き合い、そのまま結婚すればいいのだから。結婚という過程を経ることにより、お互いの思考が均質化することで、面白みがなくなることはないのか?このような疑問は浮かぶけれど、「自身の思考と均質化した人」というのを見たことがないため、私が取り入れる知識を持つ人の性質における多様性を広げるためにも必要な気はする。均質化していない人も、均質化している人もどちらも持っていたほうが面白いよね、ということだ。

そもそも、元々私が面白いと思っている人であるから、何かしらの知識を自身の力で獲得している過去というものが存在している。そういった人が急に知識を獲得しなくなるということは想像し難く、今後も何かしらの知識を獲得して行くだろう。私との生活で獲得した知識と、私が関与していない場所で獲得した知識が混ざり合って行く状態も、気になっていたりする。そのような存在はなかなか獲得できないわけだし。

子供の面白みにも近いものがあり「自身の思考と均質化した血のつながりのある人」自体に面白みがあると思う。私の子供は私の思考に似寄り、また結婚相手の思考にも似通ってくるだろう。そして、結婚相手と同様に私の知らない世界から影響を受けて育って行く。0から育っていくことも面白さの一つかもしれない。0という存在がなにかになっていくということが想像がつかない。

何に興味を持ち、何を体得し、何をしていくのだろうか。私が生きていた技術レベルとは異なる社会で生きていくことになるため、情報収集の方法が異なれば、学び方も変わっていくだろう。どういった情報を持ち運ぶようになるかは気になるところである。

今までは周りから情報を収集していたことが、子供を媒体として情報を収集するようになるのは、意外と人生においては革新的なのかもしれない。私の生きていた中で私の子供から情報を得るなんてことはしたことないし。

ここまでして子供を育てる理由を考えていると、そんなに無理して考えなくていいんじゃない?と言われる。そこまでしないと結婚したいと思えないので仕方がない。実際は、この前お風呂に入っていた時までこのような思考は忘れていたので、大した考えではないのかもしれない。とは言えども、お金を貯めなければならない現実のせいで、こんなことを考えてなければならなくなっている。

お前はこれを買うと死の選択しかない状況が待っているぞ、と脅されるほうがよっぽど抑止力になるような気もしなくもない。

私が生きることができるようになります。