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『ぼっち』を書くことには自信がある


以前も少し書いたが、私には友達が居ない。

そもそも、私は他人の前で『素』の自分を出すことが出来ない。

例えば一緒に居る相手が「コーヒー飲みたいし、スタバ行かない?」と言ったとする。

そのとき、私はタピオカミルクティーが飲みたいから、タピオカドリンク店の方が良いな…と心の中では思っていたとしても、必ず笑って「うん、スタバ行こう」と言ってしまう。

無理して合わせているわけではない。むしろ、相手の意見とは違う本音を伝えることが、無理なのだ。それを言うと、今度は相手が私に合わせようと気を遣ってくれるかも知れないし、意見がぶつかるかも知れないし…などと考えて、結果的に相手に合わせることがベストなのではと思ってしまう。

当然、これではスタバに誘った相手は、私も喜んで同意したと捉えてしまうだろうし、まさか心の中ではタピオカの方が良いと思っているなんて、気付けるわけがない。

つまり、自分を曝け出せない私は、相手から理解を得る努力をしていないのだ。

だから、当たり障りのない人付き合いしか出来ない。

そんな自分の欠点がわかっていても、なかなか人間というのは、思ったようにはすんなり変われない。

家族の前では、何も飾らない私で居られる。嫌な時は嫌だと言えるし、気が乗らなければ無理には合わせない。だから逆のケースだって別にぶつかることはないし、「何やねん、意見合わんな(笑)」で大抵のことは片付く。

だったら何故、それを他人には出来ないのか。

答えは簡単。血の繋がりが無いからだ。

血の繋がった親子なら、意見が合わないだとか、好みが違うだとか、そんな理由でいちいちぶつかっていがみ合っても疲れるだけだし、それで簡単に縁が切れるわけでもない。だからこそ、お互いの腹の底まで見せ合って、どうしようもない自分も知ってもらうことで、家庭という居場所を守っているのだ。

私は短気でわがままで面倒くさい人間なので、そんなどうしようもない自分を、人前で曝け出す勇気がない。つまりは単なる見栄っ張りだ。


以前、私が書いたBL小説に「ショコリータさんの作品を読むと、人との繋がりの大切さを実感します」という旨の感想を頂いたことがある。

とてもありがたい言葉なのだけれど、私は少しの罪悪感を感じた。ろくに友達も居ない私が、人との繋がりの大切さを書いているなんて、滑稽ではないだろうか、と。かと言って否定するのも、感想をくださった方に失礼だ。

もしも私が本当に人との繋がりの大切さを書けているのだとしたら、それはきっと、私自身が人一倍それに飢えているからだと思う。

『ぼっち』の気持ちに関しては、かなりリアルに表現する自信が無駄にあるから。

そう考えると、孤独もそんなに悪くはないのかも知れない。その内、寂しい主人公の物語でも書ければ良いなあと思うことにしよう。

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