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鮮やかな世界を濁すたった一滴の黒い雫


うちの次男は、物凄く記憶力が良い。

少し多動性発達障害の疑いがある子なので、学校の授業なんかで長時間集中するのは苦手なのだけれど、自分の好きなことや興味のあるものに対しては、恐ろしいくらいのめり込む。

お気に入りのアニメやゲーム、ドラマや映画の登場人物は勿論、台詞や動きに至るまで、ワンシーン丸々すぐに丸暗記してしまえるくらい。

私はあまり記憶力が良くないので、次男のそんな能力は素直に素晴らしいと思っている。だから毎日のように、「それが勉強でも活かせたらもう最強やん!」と褒めていた。褒めていた「つもり」だった。

ところが今日、ゲーム中に癇癪を起こした次男に注意をしたときに、言われたのだ。

「俺のこともっと褒めてよ! 『その記憶力勉強に活かせたら』とか、そんなんばっかり!」と。

思わずハッとなった。

傍に居た夫がすかさず「ママは誰よりも、いつもお前を褒めてるよ」とフォローしてくれたけれど、私は創作活動をしている身でありながら、なんて初歩的なことに気付いていなかったんだと、物凄く反省した。

私自身は、次男の記憶力の素晴らしさを持ち上げているつもりだったけれど、次男には逆に、学力を非難されているように聞こえてしまっていたのだ。

人は、多くの賛辞より、たった一つの批判の方が心に残ってしまいやすい。自身が自覚している短所やトラウマなどを指摘された場合、より一層その傾向は強くなったりする。

『沢山の嬉しい言葉より、1つの誹謗中傷の方が圧倒的に力が強い』フィギュアスケーターの本田真凛選手が先日綴っていた言葉だ。

monokakiさんのnote記事でも、『褒める言葉は二倍ぐらいに拡大して受け取ってちょうどいい、厳しい言葉は少し軽めに受け止めてちょうどいい、攻撃や誹謗中傷は絶対に受け止めなくていい』と書かれていたけれど、これは受け手ではなく、やはり言葉を発する側が気にかけなくてはいけないなと思う。

褒める言葉より、批判の言葉はその何倍にもなって相手の心に届く。例えどんなに短い一言でも、相手の心を一瞬で黒く塗り潰してしまえるだけの力を持つのだと、伝える側が意識しなければいけない。


この自粛生活で、ついつい小言を言いがちになってしまうけれど、それだって褒め言葉を打ち消す要素になってしまうよな、と今日改めて思った。こちらは「もう、またそんなことして」くらいのつもりでも、塵も積もれば何とやら、である。

明日からは、もっと良いところに、より一層目を向けようと思う。


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