大キライなこの疫病は、人と会うことの素晴らしさを教えてくれた
「Apéro!これね、僕の一番好きな言葉なんだよ」
ビールで乾杯した彼は、上機嫌に新しい言葉を教えてくれた。「Apéro」彼曰くフランス語で「軽く一杯行きませんか」との意味らしい。
逆に「Karuku Ippai Ikimasenka」を教えたら、彼はひどく気に入って、翌日の会議でも嬉しそうに語っていた。
そう。今の会社に入って1年。私は初めて誰かとグラスを交わした。
この疫病が大キライだ
私はこの疫病が大キライである。憎んでいると言ってもいい。
前の会社はこの疫病をきっかけに傾き、知人は廃業を余儀なくされ、子ども達は学びと遊びの機会と場所を奪われた。
それまで培ってきたものを一瞬で奪っていったこの病を、ダラダラと続くマスクの風潮を、心の底から憎たらしく思っている。
それでも、皆が不安を感じる気持ちは分かるし、人によって感度の違いがあることも理解出来る。
だから、自分なりの距離感でこの疫病に向き合えば良いのだと思う。ただ、他の人に自分の考えを強要しない。皆が強要するべきは、それだけである。
人と会うことは素晴らしかった
そんな、憎んでもいるこの疫病に、ひとつだけ感謝していることがある。
人と会うことの素晴らしさ。これを教えてくれたことである。
人と会うこと。たったそれだけのことが、ここまで会話を促し、心を弾ませ、孤独を紛らわせるものだと気付いた。
朝起きて、向かう場所がある。向かった先に、人がいる。その人たちと、他愛のない会話をできる。全て特別なことだったのだ。
正直に言うと、そんなこと夢にも思わなかった。
会社は嫌でも向かわないといけない場所だったし、会話が溢れる中で無駄で冗長な会話は真っ先に削る対象だった。
そんな人と会うことが、ここまで心に平静と喜びを与えてくれる。
そのことに気付けたことが、一番の学びであったし、もし今回の疫病が無かったら気付けていたかどうかは怪しい。
当たり前はどこにでも潜む
人は失わないと物事の大切さに気付けない。時と場所、人種や性別を問わず、何千億回とも繰り返し語り継がれてきた真理である。
それを、嘲笑うかのように、疫病は押し付けてきた。分からせてきた。
本当にその通りだと思う。何故、失うまでその大切さに気付かないのか。当たり前なんて存在しないのに、何が当たり前なのかすら分からない。
日々生きる中で、意識していないもの。そこに当たり前は潜んでいる。それは余りにも自然に景色に溶け込んで、見えなくなってしまっている。
「カラーバス」という手法がある。
『考具』という本で提案された、特定の「色」を意識して見ようとすると、普段目に入らないものまで見えるようになる、という思考法だ。
試しに、今日一日「赤色のもの」に意識を払ってみて欲しい。どれだけ普段「見えていない」ものが多いことか。
当たり前は当たり前だから気付かない。気付けない。そして、当たり前は日常のどこにでも潜んでいる。
当たり前なんてない。なんて言うのは簡単だが、気付くのは簡単ではない。
人と会うことは素晴らしい
心の底から憎んでいる疫病だが、人と会うことの素晴らしさを教えてくれたことには心の底から感謝している。
おそらく数年したら、また人に会うことが当たり前になって、その有り難みも薄れていくのだと思う。
でも、気付けた事実は、一生残る。あの時、気付いたんだって。
「Apéro」で始まった飲み会。結局、ビールは5杯目になったし、2時間はあっという間に溶けていった。
それでも、この夜のことを忘れることはない。特別な夜だった。
そんな彼も、来年には本国に帰ってしまう。
いつか彼の国で「Apéro!」と言う日を、既に夢見ている。
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