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「わかる」と「できる」には壁があると言うが、どうやったらそれを超えられるのか
「わかる」と「できる」は違うと言われます。私も高校の時の数学の先生に初めて頂いた言葉で、その通りだなと思っていました。
最近Twitterを見てみると、結構一般的に踊っている言葉だったのだなと感じました。確かにインパクトのある言葉ですからね。
ただ、どうすると「できる」にまで進むことができるのかというと、あまり言われてないような気がするので、便乗して書いてしまおうというnote。
面白い本とは何か
noteを書いたり読んだりする皆さまです。本がスキな方ばかりなのだと思います。本って、本当に素敵なものですよね。
たくさん本を読んでいると、面白い本が分かるようになってきます。私は面白さはふたつの種類があると思っています。
ひとつは内容が示唆に富む本です。この本たちは、言っていることそのもの自体に発見があり、なるほどねと思わせてくれる本です。
もうひとつは、表現が示唆に富む本です。この本たちは、構成、言葉遣い、会話や言葉の出るタイミングなど、表現にエンタメ性のある本です。
このふたつの要素があって、本は面白くなるのだと思います。
…だからどうした!
それが「わかった」からと言って、私がnoteを面白く書けることにはならないのです。つまり「わかる」と「できる」に差がある状態です。
面白がってやってみること
冒頭の数学の先生のお話になるのですが、その先生は様々な面から数学の面白さを教えてくれました。
中でも面白かったのは、数式で絵を描くというお題です。
点・直線・曲線。座標の上で表現したいことを考えて、それがどのような関数で表現出来るか考え絵を描いてこい、というお題だったのです。
このお題は面白く、普段数学がそんなに得意ではなかった私も前向きに取り組みまして、頑張って絵を描いたことを覚えています。ピアノの絵。
その時に、なるほど、数式ってこの部分を変えるとこう動くのねと「わかった」のを覚えています。
何本も絵を描き進めているうちに、段々と線を描けるようになりました。曲線が多くて失敗と思ったピアノも、まぁいいかと思えるぐらいに。
これが「できる」ということなのだと感じます。
ちなみに、最優秀作品は蝶を描いたもので、右半分はちゃんと描いて、左半分はマイナスを付けることでまるっとコピーしたものでした。天才か。
体が動かして再現できること
「線の引き方がわかること」と「線を引けるようになる」が、「わかる」と「できる」の壁の超え方なのだとすると、変わったことはひとつです。
それは「手が動く」ことです。
頭で理解した情報を、体で再現することができること。それが、「できる」ということなのです。
「体が動く」ことが「できる」ことであると考えると、だいたいの「わかる」と「できる」の差を説明できるようになります。
速く走れる時には足が動き、外国語を話せる時には口が動き、良い文章を書ける時には手が動く。
この「体を通じて再現できる状態」が「できる」状態で、つまりは「体得」した状態なのです。
体得した状態を目指せ
『角川類語新辞典』によると、体得とは以下の意味だそうです。
体験した結果、身につくこと。会得して身に付けること
へぇ。では会得とは?
理解してすっかり自分のものにすること
ふむ。ついでに類語で出てきた習得とは。
習って覚え込むこと
つまり、習って覚え込ませて習得し、理解して自分のものとする会得をし、身に付けることで体得をする。ステップが上がっていくのですね。
そして、「できる」は、体得という、一番最後の状態を指していた言葉だったのです。
体得は定義の通り、体験を通じてしか成し得ません。つまり、体得までには体を動かすプロセスが必要になるのです。
ということで、良い本や文章が何か「わかった」としても、それを書くことが「できる」ようになるためには、体に染みこませる必要があるのです。
結局、noteは体育の授業ということですね。体に染みこむまで書けということ。私のnote論はいつも脳筋。
千日の稽古をもって鍛となし、
万日の稽古をもって錬となす。
宮本武蔵の言葉です。ひたすら剣を考え続けた宮本武蔵は、あらゆる芸術に通ずる、多くの言葉を遺しています。
つまりは、真理を体得していたのかもしれませんね。
ではでは。
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