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うつわとなかみ

引き続き、うだうだしてます。
前の記事でも触れたけど、最近「中の人」について考え続けていて、とらわれていて、もはやとり憑かれレベルにある。

だから久しぶりのnoteなのに変なことを書いてるな~という自覚はあったのだけど、どうしてもそこから始めないと始まらなかったんだな。

まだ答えは出ていなくて、この先も結論が出ることはないのかもしれないのだけれど、進まないので途中経過を書いてみることにした。



事の起こりは、子どもの「自分は空っぽだ」という発言である。

しかも面と向かって言われたのに「そんなことないよ」と打ち消してあげることができなかった。

だから尾を引いて、引きずりまくっているのだ。自業自得。

言い訳になるけど、今までにもこういうやり取りは何度もあったので、「そんなことないよ」に始まる一連の一般的な対応はしてきていて。それで何かが好転したりうまくいった試しもなく、その時に至ったわけで。

今回はそっちの道を通るのをやめた。

子の苦悩を解決できる言葉を、私は知らない。

寄り添って、気持ちの矛先をかえることを優先したのかもしれない。
日々の暮らしを続けるためにはそっちも大切だったりする。
たとえその場しのぎであっても、なにも変わらなくても。

「今はそんな風に思うんだね」と声をかけるのが精いっぱいだった。

自分という器と、中身とのそぐわない感じや得体のしれない気持ち悪さ、すかすかの満ち足りない感じなら、私にも覚えがある。

「私にはなにもない」と思ってた。

10代後半はずいぶんもやもやしていた。
それが薄れてくるのはいつだったのか、どうしてだったのか、どうだったんだろう。過ぎ去ってみれば、いつの間にか忘れてしまうような物思いだったように思う。

よくある話で、通る人は通る道なのかもしれない。

ただ、それにしちゃ厭世感が強すぎる。
時代の流れなのかな。それともニュータイプなのか。
あるいは我が身に起こることと、我が子に起こることでは、重みが天と地、雲泥の差ってことなのか。


なにが自分なのか、どうすれば自分が自分であることを受け入れられるか、なんて、外野がいくら考えてもどれだけのことをしてやっても、できるわけがなくて、当人で見つけて落とし込んでいくしかなくて、傍で親が悩んでいることがそもそもナンセンスなんだけど。
ほんとにナンセンス。ナンセンスは好きじゃない。

それでも、中身をどうやったら満たしてあげられるんだろうってずっと考えていた。

そんな時に出会った本が2冊。
なにも解決はしないけれど、そばで寄り添ってぐるぐるもやもやしてくれる作品だった。

村田沙耶香の「コンビニ人間」
刊行から何年もたっているのに、ずいぶん話題にもなっていたのに、2021年の夏まで手を付けていなかった村田沙耶香。

どえらいものを見てしまった。ぞわっと身の毛のよだつ感じがした。たぶん私には新しすぎた。私は変容の最先端にいる人ではないから、対応できなくてぞわぞわしたんだろう。読んだ後に、なにかもやぁ~と思考をのこす本だった。
『キッチン』のように、20年、30年たってハマる作品になるかもしれないなーという予感。

川上弘美の「某」

新聞の書評を読んで気になっていたら、偶然図書館の書棚で見かけたから借りて読んだ。こういうタイミングの妙、本に呼ばれたんだな、と思うやつ。

不思議なお話だった。主人公が一定期間ごとに違う人生を生きる。性別も見た目も人種もさまざまで、それぞれの感情も思考も持っていて、別人格として生きる。過去キャラの記憶もうっすらあり、アニメ『不滅のあなたへ』と世界が近い。人の中身ってなんなんだろう、と混乱した。


「コンビニ人間」を読んだ時のぞわぞわ、もやぁ~が、「某」でぐるぐるまきのもうちょっと形あるもじゃもじゃになったというか。

自分とは?
中身とは?
中身を入れるうつわとは?
うつわを満たす中身とは?

ってなことを思いめぐらせていた。

これを書くにあたって、2冊のリンクを探しながら書評などを読んでいたら、どちらにも「擬態」というワードが出てきた。

びっくり。つながったわ~共通項あったんかい!

2冊によって生まれた思考の絡まりに「擬態」というタイトルをつけたら、なにかぐるぐるが変化しそうな気がしてきた。

数日の寝かせ期を経て。

想像にすぎないけれど、アウトプットしたいので書く。

子どもは普通になろうとして、普通を演じて生きてきて、普通への擬態がわりと得意で、しようと思えば今でも上手にできるけど、そうすることに疲れてしまった(ここまでは本人の今までのお言葉をツギハギ)。

擬態をやめて気づいたら何もなかった、というところで「空っぽ」発言になったのかなと。

そこからどういう振る舞いが自分にとってのスタンダードで、ありのままであるか。
自分を出しすぎると生きづらいな、擬態に走っても生きづらいな。
じゃあ、どこかで折り合いをつけるのかつけないのか。
どれくらいの塩梅の自分を自分として自分という器に入れていくのか。
などなど途方もない作業工程の中にいるのかな~と解釈をしてみた。

まぁ、あくまでも私の想像だから、本人が見たら「全然違うわ!」と怒り出すかもしれないし、「勝手に分析すんな!」と罵られるかもしれない。
それ以前に、私が考えたって無意味だし。
でも、なぜ考察をやめられないかっていうと、それが私で、私のやり方で、私の生きる道~だから。

あの発言、いつものことだから気にするまいと思いつつも、やはり私にとってはショックで、ナスかオクラの棘に当たったときみたいに傷は見えねども、どこかがチクチクするあの感じだったのだろう。
と、ここまできてようやく思う。

書いてみてやっと喉の小骨が取れた感があってスッキリした。

noteという名の川に放流させていただきます。
お読みいただいた方、ありがとうございます。

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