強すぎる自我に宛てて。

拝啓

紫陽花の候、いかがお過ごしでしょうか。
わたくしのほうは、霧の中で目が醒める日々を、なんとはなしに朦朧と過ごしております。

さて、早速ではございますが、
筆を進めさせていただきたく。

「存在すること」とは何なのでしょうか。
実はこの問、考え始めてから久しいものなのですが、
もう一度考えてみたいと、昨今存じております。

受け売りではございますが、
わたくしの感覚といたしましては、
「言葉になること」ではないかと。

少なくとも、「言語化」は、
「存在」の一つの必要条件ではないかと。

言語論的転回は、言葉が存在に先立つという、
革新的な言葉ー議論です。
言葉がなければ、存在しないのです。
もともと空虚な私たち、すべてのものは、
言葉となることでしか存在できないのです。

様々なものが、こぼれ落ちていき、
何も制御できないように見える。

そういう時期には、
当たり前に錯覚していた「存在」の消滅を、
感じます。

そういう時期には、
強すぎる貴方は、
「言葉にすること」で、
必死に「存在」を繋ぎ止めようと。

自分宛てに、言葉を紡ぐことで、
必死に、存在を紡いでいくのです。

どこか、無我を許さないこの社会で、
無我を許せない強すぎる貴方は、
自我の存在のために、言葉を紡ぎ、
社会に「存在」を紡ぎ出そうと。

末筆ではございますが、
どうかお身体おいといください。

また、近いうちに御便りを。

敬具

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