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母を超える砂肝。

母の四九日法要も終わり、一区切りついた。
未だに、
悲しみや、淋しさはやって来ないけど
料理をしていると、ふと母の事を
思い出すことがある。

今日は砂肝にしよう

今日も、砂肝の下味を付けながら、
母のことを思い出していた。

でも、母の思い出の味や食材ではない。

それどころか、実家で
砂肝の料理を食べたことも見たこともない。

不思議でしょ?

母が一度も扱ったことないであろう、
砂肝を料理してると、
何だか母を超えたような、
ちょっと誇らしい気持ちになるのだ。

考えてもごらんなさいよ。

ある時から料理をすることになる。
まずは、子どもの頃、食べたモノの中から、
見繕って作る。
慣れてきたら、本を見たり、
実家要素から少しずつ離れて、
見聞と、実践を増やしていく。


…でも。

それでも使ったことない食材は、
何となく避けているのだ。無意識に。

食べたことあるか、ないか。

それで、スタートラインがだいぶ変わる。
人にもよると思うけど、
"食"と言うのは、意外と保守的だと思う。

下味をつけてます。


レバーが苦手だったから、
ホルモンとかの内臓系も一律に
避けていた。
焼き鳥屋さんでも選ばない。


大人になると、
選ばなくていいなら、選ばない生き方が
できるもんね。

それでもある時、友達宅で
飲んだ時に作ってくれた砂肝のおつまみは
私の扉を開けてくれた。

自分で初めて買った時は、
ワクワクした。

へー。

こんなふうに、ふた山繋がってるんだ!

この白っぽいのは、銀皮っていうんだ!

竹串で、少し剥がしたところを
うぉ〜すごい。引っ張っると剥がれる〜

なんてキッチンで
ひとり静かに大興奮しました。


母が、使ったことない砂肝を、
私は料理する。

うちの子たちは、いつでもどこでも
砂肝を躊躇なく選べるのだ。

私が避けてきたものを、選べるのだ。

食に関しては、

親が、子どもの頃に与えるもので、
何でも選べるスタートラインを
用意してあげられる。

苦手なものはあっても仕方ないけど、

かつての私みたいに、
口にしないで"無理"というのは、
出来るだけしないでいて欲しいね。

オットは、堪らずビール出してた。

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