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虐待とDVはつづくよどこまでも…支援者は何をすべきなのか

私の関心事である、家族問題、特に、DVや虐待については、いつもアンテナを張っています。臨床では、精神科クリニックの個人面接なかで、どうやったら暴力的な夫や親に抵抗できるか、いかに自分を守れるかを念頭に、共にサバイブしている。

相談につながってくる人は、ほんの一握り。多くの人が、がんじがらめの家の中で、無抵抗で、無気力であるに違いないのではないかと想像している。それだけ、家族問題は、外からは見えにくく、無法地帯である。


暴力がまだ日常だった時代

虐待やDVが騒がれるまで、暴力は、私が生まれた70年代は結構普通にあった。学校や家庭で親や教師から殴られることなど日常の風景であったし、しつけの延長、指導の一環で済む話で、取り立てて大きな事件になったりはしなかった。

今考えると、私の担任であった男性教師はひどかった。忘れ物をした生徒を、教卓の前に並ばせて、一人ずつ順に殴った。忘れもしない。指導してやっているといわんばかりの確固たる信念のもと、ビンタしていく。そこに、男子も女子も関係なかった。そそっかしい私は、叩かれるのが怖くて仕方なくて、忘れ物を申告しないこともあった。

現在だと、生徒が親に訴えて、親から学校にクレームが行き、緊急保護者会とか?もしかしたら夕方のニュースで報道されて、その教師は体罰をした加害者だと、世間が非難したかもしれない。時代の変化に伴い、体罰はダメだということが浸透し、教師は親からの糾弾に恐れるようになった。

しつけと暴力の境界はあるか?

ー行き過ぎる父親の子育て介入ー

親からの行き過ぎたしつけはどうだろうか。過去を振り返ると、私はこのニュースが頭に浮かぶ。

高級官僚だった父親が引きこもりの長男を殺した事件

奈良医師宅放火殺人事件(息子が父親不在時に放火し家族を殺害)

どちらも中流以上の家庭で起ており、犯人はしばしば「良い子」だったりする。どちらも、「よかれ」と思ってやっていることがエスカレートして、暴力が生まれて、事件に発展。家族だからこそ、かわいいから?期待するから?世間体が気になるから?理由はどうであれ、家族間には、越えてはいけない一線を、いつの間にか越えてしまう、そんな危うさがあるのだろう。

父親が娘を虐待死させたの事件で言うと、

千葉県野田市の小4児童の虐待死なんか忘れられないくらい壮絶。

父親は「飢餓状態にしたりストレスを与えて衰弱させたことはない。立たせたり冷水シャワーをかけたことはない」など虐待について一部否認し、最終弁論では「しつけが行き過ぎた」「日常的な虐待はなかった」と主張。自分が何をしたのか全く認識できておらず、事実と矛盾した主張ばかりするんですよね。本当に、我を失っているとしか思えない…狂気。

一方母親は娘を見殺しにいたと非難されているが、DV被害者でもあった。

以下は、記事から引用  

母親(妻)へのDVの内容は、およそすべてが含まれるモンスター級。精神的には“バカ”“お前は何もできない”と暴言を吐かれる。身体的には殴られる。経済的には貯蓄や生活費を厳しく管理される。社会的には行動の監視、ケータイの履歴をチェックしたり、妻が友人や両親と会うことを禁止したりする。(引用終わり)

家族問題の専門家である信田さよ子先生の言葉を借りると、

まさに、家族という密室で、DVと虐待が「同時多発的」に起こっていた例。

母親は子どもを救えなかったか…の前に、妻は夫に支配されてて、強大な夫の権力を前に、逆らうことができない状況に陥っていたのだと推測できます。

なぜ、虐待を前面に報道するけど、DVは陰に隠れてしまうのか…



ニュースでは、DVよりも虐待を前面に取りあげがちなのは、世間の風潮が、虐待は、無抵抗な子どもが受けるもので、“かわいそう”だけど、DVは“自分で選んで結婚したんでしょ”“嫌なら逃げればよかったのでは”と考えるからのようです。

2014年、全国の児童相談所が対応した児童虐待の件数が過去最多を更新し、全国の虐待通告件数は8万8931件で、初めて8万件を突破してます。

警察が2012年ごろから「面前DV」を積極的に通告し始めたこと、2013年度の「子ども虐待対応手引き」の改訂によって、心理的虐待での通報が可能となり、件数が伸びたと言われています。ほとんど警察からの通告ね。

我が家も面前DVと言われて、児相に…

我が家も発達障害を抱えた長女が学校に行くの行かないのでもめて、親子喧嘩して、激昂して癇癪起こし、親もキレて「呼べるもんなら(警察)よんでみろ!」で衝動的に110番されたもんだから、深夜にパトカー出動させたこと数回。(深夜なんで近づいたらサイレン止めてくれる配慮付)

お巡りさんの丁寧でよく訓練された対応の後に、児相に通告されたことあります。長女自身に虐待をしたというのではなく、ほかの兄弟の前で暴力(身体的心理的)を父親がふるったかが事情聴取の肝。「面前DV」にならないようにねってご指導受けてます。児相から連絡きたけど、具体的な措置などの処遇はないわけ。手一杯なんだろうね。負担かけて申し訳ない。そして、当の長女は、警官に諫められて終わりなんですけどね。

親の、それも多くは父親は強力な権力によって、家族を押さえつけ支配する。上から抑圧された力は、結局弱いところに行くんですねよ。

親から子へ、子から子へ 夫から妻へ 妻から子へ

夫から老親へ 子から親へ こう考えると、いろいろ見えそうですね。

加害者アプローチという発想

いくつかの研修で、時代の先端を走っていた信田さよ子先生の講演を聞き、著書「家族と国家は共謀する」を読んで、加害者更生のありようを知ることになったのだが、その実は家族解体を防ぎ、被害者の安心安全を回復すると述べられていた。

支援者の中には「加害者は変わらない」と考える立場の専門家が一定数いることは確かであり、私も、この分野を勉強する前なら、同じ様に考えていただろう。

しかし被害者ばかりが住むところや仕事を失って、名字を変えて、住基ロックするだけで、加害者は一切変わる必要がなくて、元の家に住み続ける…といわれると、「確かに加害者を放置してるだけか」と思える。そうではなくて、加害者が被害者に負う責任を果たすために、彼らが学ぶことが重要なわけだ。ただし、生い立ちや育ちなどの原因論ではなく、信念にアプローチすること。どうすれば、変えられるか、妨げているものは何か…といった風に。

被害者は加害者と同じ屋根の下で生活しているという事実ーカウンセリングの意味は?彼女らは何を頼りにいきていくのかー

普段、クリニックで、私はマルトリートメント(不適切な養育)やDVで苦しむ女性のケースを担当している。どちらも加害者と同居しながら、カウンセリングルームに来る女性たちだ。

生活の中で、常に不安や恐怖、時にはフラッシュバックや身体的な不調を抱えて生きている。個別面接では、できることが限られる。その中で、暴力が犯罪であり、あなたは被害者であるというスタンをとっている。

その立ち位置から始める。DVも虐待の、被害者と加害者の立場をねじれていることが常であるからだ。

だからこそ、第三者的視点から眺め、加害者がやっていることが「間違っている」「おかしい」「普通じゃない」と訴えたとき、それを肯定する役割を担っている気がする。

当事者である女性たちは、孤独だし、現況から抜けたくても、なかなか前に進めない苦しさを抱えている。原因がなんであれ、暴力は言い訳できない。圧倒的に力が強いものから弱い者への攻撃そのものが支配だからだ。ただ、担当ケースは身体的暴力というより、心理的なものが強く、警察が介入するような事例とまでは言えない。だからこそ、精神的に疲弊してしまう。

私の役目は、週一回やってくる女性たちの、羽を休める止まり木であればいいと思う。そして、悲惨な環境で、耐えていることへの労い、自分を責めずに、相手からの攻撃をどうやったらかわせるか、無力なものにできるかを一緒に考えるのだ。






 

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