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体育座りの先の「心ゆたかな子」

私より高いところで、スーツを着た髪の寂しい男性が難しいことをしゃべっていた。

勉強とは―――
協調性とは―――

何かすごいことを仰せなのだろうけど、私にはちっともわかんない。
退屈だ。とりあえず、早く終わってほしい。
「しっかり話を聞いています」という真面目な顔を作って、そんなことを思っていた。


小学校の体育館で全校集会が行われていた。

クラス毎に背の順で並んだ列の真ん中あたりで、周りと同じように体育座りをする私。
その目線の先に、行事のときにしか見ない、名前も顔もよくわからない、とりあえず学校の中で一番偉い人、つまり校長が、長い話をしていた。

早く終わらないかな。

そうやってお偉いさんの退屈な話をぼーっと聞いていたとき、突然「心ゆたかな子」という言葉が私の耳に入ってきた。

その言葉を発した校長は、「みんなにこうなって欲しいんだ!」と言っていた気がする。多分。


心ゆたかな子

この言葉は、我が母校の校訓だ。
だいぶ昔の記憶で曖昧だが、確か生徒玄関の廊下か校長室の前か、どこかに達筆な字で書かれたこの6文字が飾られてた気がする。
校長は、全校生徒が集まる前でこの校訓について話していた。


ただ、小学生の私は、「心ゆたかな子」という意味がわからなかった。
”豊かな生活”とか”豊かな食事”とか、ゆたか=ポジティブなもの、という認識くらいで。
額縁で飾られる言葉なんだから、まぁすごいんだろうな、と。

とりあえず、大人が言う「立派な人間になりなさい」的なやつかなと思っていた。

そんなことを考えていたら、いつの間にか校長は目の前からいなくなっていた。



私はよく、「笑顔が素敵だね」と言われる。これはとても嬉しい。どんな人にも笑顔を向けられるから、今まで第一印象で困ったことはない。

けれど、私は「笑顔しか持ってない」ことが悩みだった。

どんな場面でも、私は笑ってしまうのだ。笑顔しかできない、という意味で。

例えば、高校生のころ、体調不良で部活を休むと顧問に伝えにいくと、
「休むのはわかった。でも、なんで笑っているんだ?」
と言われたことがあった。

私は驚いた。
え?私、笑ってませんけど。部活を休むという申し出を笑いながら言う人なんて、どこにいるんですか?

しかし、職員室を出て顧問の言葉を考えたとき、ハッとした。

私は笑っていたから。

別に、ハハっと声を出していたわけでもないし、顔をくしゃくしゃにして笑っていたわけでもない。
けれど、そのときの私の両口角はわずかに上がっていた。
履歴書に貼る写真くらいの、かすかな微笑みを。

私は、「部活を休んで申し訳ありません」と詫びの気持ちを顧問に伝えるはずだったのに。なんと笑みを向けていたとは。
もし誰かに笑いながら謝られたら、私なら不愉快になるな。

今ならそう思えるが、当時は「その場に合う顔」というものがわからなかった。
だから、無意識のうちに自分にできる表情、つまり笑顔を作ったのだと思う。

人に指摘されたのはこの時が初めてだったが、私はこれ以外でも、笑う場面ではないときに笑っていたに違いない。
厄介な癖だった。


この癖の直し方をずっと考えていたが、大人になったとき、あることに気づいた。私は自分の感情を知ろうと思ったことがなかった、と。

先ほどの部活の例で言えば、部活を休むと決めたとき、自分がどういう感情なのか―――例えば、部活に行けなくて悲しいのか、きつい練習をしなくてラッキーと思っているのか―――それを考えようとしなかった。

私は「部活を休むときは申し訳ない気持ちを持つ」という、「きっとこういうのが正解なんだろうな」ということを考えていたのだ。

自分の感情よりも人の反応を気にする。

きっと、これが私の嫌な癖の要因になっているのではないだろうか。


そういえば、小さい頃からそうだった。
もし私が泣いたり怒ったりしたら、周りは困るだろう。
そうならないために、笑っていよう。笑っていたら、誰も困らない。


そうやって自分の感情を笑顔で覆い隠す人生を送ってきた。嫌なことがあっても笑っていた。だから、笑顔以外の表情の作り方がわからないのかもしれない。
証明写真のような微笑みが、私のデフォルトになってしまうほどに。



相補性の法則というものがある。人間は自分にないものを持つ人に惹かれる、という心理学の言葉だ。

好きな人のタイプはと聞かれたら、私は必ず「表情が豊かな人」と言っている。まさに相補性の法則で、自分にない表情ができる人に憧れていた。

社会人になって初めてできた後輩が、そんな子だった。
嬉しいことがあったら顔をくしゃくしゃにして笑うし、仕事でミスをしたら泣きそうな顔をする。怒られたらしょんぼりするし、困ったら眉毛がハの字になる。
ころころと変わる彼女の表情を見て、面白いなと思った。1人の人間からこんなに表情が出てくるのかと。そして、自分の気持ちをまっすぐに表現できて、羨ましくなった。私は笑顔しかできなくて困っているのに。

表情が豊かな彼女は、毎日とても楽しそうだった。だから、彼女を見ていると自分も楽しくなった。同性じゃなかったら、恋心かと勘違いしちゃう。

こうやって人の感情を知ることが面白いものだと知ったのは、大人になってからだ。
それからは、表情が豊かな人の近くにいることを積極的に好んだ。

表情が豊かな人は、知っている言葉も多いと思う。
決して難しい言葉じゃなくても、
「それって嬉しいってことだよね!」とか
「それをされたら怒って良いんだよ!」とか
感情と結びつく言葉をよく知っている。

そういう人の近くにいると、自分の感情を考える機会が自然と増えてきた。今までの自分では見過ごしていた感情も、言葉にすることを意識する。そうすると、新しい自分が知れて面白い。自分はこういう人間だったのか。
私は自分のことがもっと知りたくなってきた。
さらに、自分に合う言葉を見つけたいとも思った。自分の感情にぴったり合うような言葉に。

こうやって自分の気持ちを素直に言葉に表したら、人生が楽しくなった。


そうか。体育館でぼーっと聞いていた「心ゆたかな子」は、「素直になりなさい」という意味だったのか。様々な体験をしていろんな感情を持ちなさい、と。

そして、勉強すること。
自分の感情を表現できる語彙力、他人の感情の考える推察力、こういう感情を持って良いんだという勇気。
これらは一朝一夕では身に着かない。

これらに気づいたのはわりと最近だけど、そこから人の文章に触れることが多くなった。
本を読んだり映画を見る時間を意識して作っている。

自分で体験できることには限度があるけど、あたかも自分の経験のように感情を学べるのが他人の文章や本、映画の良さだなと思う。

また、何かを感じたら、時間がかかっても言語化することにした。

そうやって過ごしていると、少しづつ、自分の感情を言葉にできるようになってきた。
そうしたら、変化があった。夫との仲が今まで以上に深まった気がするのだ。以前より気持ちが通じやすいというか。

今までは、自分の感情を言葉に出さずに「何でわかってくれないの!」と頭の中で夫にイライラすることがあった。そうすると言葉や態度に出てしまう。
それを、「今困っているんだけど」と言葉で伝えるようになったら、一緒に解決策を探すことができた。私のイライラが減って夫婦円満だ。

これは、私が自分の感情を知ろうと努力して、言葉にする勇気を持てた結果、変えられたこと。とても嬉しい。

あの、笑顔しか作れなかった私が、困ったり、怒ったり、自分の感情を考えてそれに合う言葉を言えるようになるなんて。

私は今、豊かな表情ができるようになってきたかな、と思う。


だから、私にとっての「ゆたかさ」とは、

表情や言葉のゆたかさ、つまり自分の気持ちを表現できる力のこと

である。



私の子どもも、ゆたかな心をもってほしい。

そのために、自分で経験させ、喜びや悲しみ、怒り、悔しさなどの感情を知って「言語化」する手助けをしたいと思っている。

だから私は、自分でもいろんな経験がしたい。そしてもっと言葉を知りたい。


ゆたかさは、人と関わって生きる人間という生き物の中心に宿る、なくてはならない大事なものだと思う。

だって、周りの反応ばかり気にして本当は何を考えているのかわからない人よりも、目の前でいろんな表情をする人と一緒にいる方が楽しいでしょう。


あのときの校長、良いことを言ってたんだな。
今もう一度、話を聞いてみたい。



体育座りの先にあった「心ゆたかな子」は、20年の時を経て私の一部になり、そして次の「心ゆたかな子」と共に歩き始めている。



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