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”困っている”が言えない私

昔から自己主張が苦手だ。

あなたはどう?と聞かれないと自分の意見を言えないし、
それすらも周りの意見に合わせるときがある。

それは言葉を発した人に向かって一斉に向けられる周りの目が怖いのと、
自分の意見が少数派のものだとしたら周りに良く思われないのではないかと不安になるから。

いつも周りに合わせてばかりで、自分ですら本当の自分の考えに気づかないこともあった。それくらい、私は自分の気持ちや考えを人に伝えるのが苦手だ。


中でも特に、「困っている」を発するのは避けてきた。

もし、私が「困っている」「助けてほしい」と誰かに伝えたとすると、その人はきっと私のその悩みを解決するために時間を使うだろう。
私には、それが申し訳なく思えた。
私のために使う時間があるのならば、自分の好きなことに時間を使ってほしいと。

だから、私は今まで何か困ったことがあっても、自分1人で解決しようと生きてきた。



今まではそれでも大きな問題はなかった。

しかし、子育てを始めると、そういうわけにはいかなくなった。

娘と2人きりで家にいると、どうしてもできないことが増えてくる。

例えば離乳食が始まって少し経ったころ。

作り置きというのが苦手な私は、離乳食の度に毎回1から作っていた。切って茹でて裏ごしして・・・ 人参10gの裏ごしを用意するのにも、1時間くらいかかった。

その間にも、娘は泣く。でも、火を使っているから離れられない。どうしよう。

私は困っていた。


今までは1人でなんとかしてきたけれど、それができない。

私の行動1つで子どもの命に関わるかもしれない。


私は夫に「どうしよう」と言った。
そしたら夫が週末に裏ごしを作って冷凍してくれたり、生協の裏ごしを頼むようになったり。
ぐっと育児がしやすくなった。
育児もめちゃくちゃ楽しくなった。



以前、「こんな夜更けにバナナかよ」という、大泉洋主演の映画を見た。

難病の筋ジストロフィーを患い自力では首と手しか動かせない主人公が、周りの支援を得ながら自分の生きたいように生きていく、という実話をもとにした映画だ。

その中で、大泉洋演じる主人公が「できないことはできる人に助けてもらう」という発言をしていた。

この主人公には多くのボランティアがいる。彼は時にはわがままと思われるような無理難題もボランティアに伝えていくが、私は悪い人だから、最初は「どうして彼はそこまで人を『使える』んだろう。相手にも相手の時間があるのだから、もう少し遠慮というものはないのか」と思ってしまった。私は悪い人だ。

でも映画を見ていくうちに、そんな彼も「生きていくため」に必死なのだとわかった。彼の「困っていること」を解決しようと動くボランティアたちに、嫌な顔をする人は誰一人としていない。むしろ、彼の周りにはどんどん人が集まってくる。

それは、ボランティアがいないと生きれない彼は、誰よりも相手のことを考えている人だったからだと思う。悩みや愚痴を聞いたり、面白いことを言ったりして、ボランティアたちを精神的に支えていた。どっちがどっちを助けているのかわからないくらいだ。


もしかして、私は「自分が困っていることを口に出す」というのを、勘違いしていたのかもしれない。


私は、助けてもらうことを一方的なものだと思っていた。助けてもらう人にしかメリットのないもの。

でも、そうではない。誰かを助けることは、助ける人にとってもメリットになることがある。例えば困っている人のニーズがわかるかもしれないし、良いことしたなぁと嬉しくなるかもしれない。助けたことによって自分はその相手をどう思っているのか気づくかもしれない。


「困っている」と言って誰かが私を助ける時間がもったいない、と思っていたのは私のおごりだった。

この映画で、「助ける/助けられる」ことの意味を考えさせられた。



困っていると口に出すこと、助けてもらうことは、何も悪いことではない。

最近も困ったことがあった。下手をしたら娘の命にも関わる。私は、各所に助けを求めた。みな親身になって話を聞いてくれる。

離乳食のときも、今回も。「困っている」と言うと、生きやすくなった。

困っているときは、助けてほしいとちゃんと言おう。そう決めた。


これからも、家族みんなで過ごしていくために。誰かに助けられながら、誰かを助けて生きていきたい。



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