小説「曖の味」(5)

「今終わりました!1回家に帰ってから行きますね」
やっと時が過ぎた。時間は18:43。
まあもちろん、今日はずっと家に居るけれど。

あの人はもう家に着いたのだろうか。
今日は珍しく飲みに誘ってくれた。外で会うことはなかなかないから、気持ちが少し浮ついて今日はいつもより準備が入念になる。

多分、19時くらいに家を出ればちょうどいいくらいにあの人の家に着くだろう。

今日も泊まることになるだろうから、メイクポーチは忘れずに持っていかないと。
明日は「本当に」バイトがあるけど、朝はシフトに入っていないからゆっくりできる。
私はバイトに必要な道具と泊まるのに必要なものをバッグに詰め込んだ。

あの人は何か予定はあるのだろうか。
何もないといいな。
私と会っている間は、私があの人の一番になりたい。私といる時間が楽しくてたまらなくて、私が帰るときは少しでも寂しくなってほしい。
あの人の都合で「そろそろ帰る?」なんて、やんわり帰ってほしい素振りはされたくない。

私を呼ぶのなら、私を最後まで大切にしてほしい。

電車に乗る。
そして3駅揺られたら、あの人の最寄り駅。
乗り換えもなく、わりとすぐに会える距離にあの人は住んでいる。

電車を降りて、いつもの道のりを歩く。
途中にアーケードがあるのだけれど、その中を通って行くと少し楽しい気分になれる。
自分で買うことはないかもしれないであろう着物を売っているお店から、お弁当屋さんやケーキ屋さん、パン屋さん、そして居酒屋もいくつかある。
今日はどこに行くんだろう?

気になっていたクラフトビールのお店があったから、そこに行くのもいいかもしれない。

そんなことを考えながらアーケードを通り抜けて、少し歩いた先にあるコンビニの角を曲がるとあの人の家がある。
チャイムを鳴らすと無言でドアを開けてくれる。
「どうぞ」
言われるがままに上がって、ソファに座る。

「寒かったでしょ。ありがとね」
あの人は私に優しい言葉をかける。
私じゃなくても、今までもそうやって自然と優しい言葉をかけてきていて、そうやって女の人と上手くやってきたんだろうな。なんて思ってまた何だか虚しくなる。

私だから、優しくしてくれているわけじゃない。あの人はそういう人なのだ。

こういうとき、素直に喜べたらいいのに。「ううん、私も会いたかったから」って言えたら。そういう関係だったら良かっただろうけど。
私は代わりに笑顔を返すしかなかった。

「おなかすいてる?」
「まあまあ、ですかね」
私はあの人に会うたびに、少し緊張をしてしまって、少し会話がぎこちなくなる。
あの人との距離感がどこまで詰まっていたのかがわからなくなるから。
わりと掴みどころがなくて、いつも穏やかなあの人だから、私がどこまであの人に踏み込んでいいのかがわからないままだから。

「あのさ、今日は疲れちゃったし、外に出るのも寒いから家でご飯に変更していい?」

えっ。
こんなにおしゃれして、外を二人で歩けることを期待してたのに。
「えっこんなにおしゃれしてきたのに!」なんて、そんなわがままは言えない。
そんなことを言ったら、あの人はもう私と会ってくれなくなる気がする。私達はそういう関係だから。
面倒なやりとりは避けなければ、心地よくはいられない。
クラフトビールはおあずけ。

結局、私達はデリバリーのピザを頼んだ。
一緒にだらだらと映画を見ながらピザが配達されるのを待つ。
「最近さ」
あの人がぽそりと話し始める。
「はい」
「忘年会ではないんだけど、それみたいな感じで毎日のように取引先や同僚と飲み会でさ」
たまに話してくれるちょっとした不満。私だから言ってくれているのか、普段仕事でしか人との関わりがないから、仕事関連の愚痴をこぼせる人がいないから私に話すしかないのか。
わからないけど私はあの人のそういうところを知れて、少し優越感がもてる。

「さすがに疲れてたんだよね。今日は金曜日なのに珍しく何も誘われなくて。仕事もちょうど良く終わって久しぶりに早くに家に帰ってこれたよ」

へぇ。そんなときに私のこと思い出してくれるんだ。私、会ってもいいんだ。私は更に嬉しくなる。

「そっちは?大学生って忘年会とかするんだっけ?」

「ありますよ。サークルとか、学科の友達との飲み会とか、あと、バイト先の人たちとも来週行きます」
「そっか。いいなぁ、仲がいい人と飲みに行くのはやっぱり楽しいもんね。羨ましいよ」

「仲いい人と飲みに行けばいいじゃないですか。いないんですか?近くに」
そう問いかけたちょうどそのときに、家のチャイムが鳴った。
あの人がインターホンで対応する。ピザの配達のお兄さんがきたようだ。

あの人が受け取ったピザを、早速二人で食べる。さっきまでしてた話は途中で終わってしまった。代わりにあの人が「何飲む?」と聞いてきてくれた。
私はお茶をもらって黙々と食べながら、何となく過ごす。
途中であの人がタブレットで映画をつけてくれた。

映画の音だけが響く。
これもいいと思えるから不思議だ。

でも、静かだとあれこれ考えてしまう。
そして浮かぶのは皓太郎のことだった。あの人に会っているときに思い出すのはとてもとても申し訳ないけれど。

皓太郎との時間も、言葉数は少なくても心地よかった。

皓太郎は何かに熱中していることが結構あった。だから、それを私は邪魔をしないようにして一緒にいた。
なかなか会えなくなってからは、ゆっくり二人で過ごす時間がなかったから、何だか逆に複雑な気持ちになる。
そして、今まで考えないようにしていたのに、もう3日も連絡を取っていないことを思い出して、心が沈んだ。
今日は結構、だめな日かもしれない。

はぁ。と、私はダイニングテーブルにくたっと頭をおく。
「飽きた?」
あの人が私を気にかける。
「いや、そんなんじゃないけんですけど、ちょっと考えごとしてて」
「集中してないじゃん」

するり、あの人が私の髪を手ぐしで梳かす。
微笑みながら。
「…酔ってる?」
「これ、お茶ですよ?」

「なに?拗ねてるの?何か嫌なことあった?」

いやなこと。そりゃあもちろんある。
でも、あの人には言えない。

もし私が「いや、彼氏とケンカしてて。もう3日も連絡取ってないんですよ」
なんて相談し始めたら、あの人はどんな表情をするんだろう。
多分あの人は、私に彼氏がいることを知っている。
聞かれたこともないけれど、私になにか「事情」があることはわかってる気がする。

「…何でもない。就活が不安なのかな。行きたいところに行けるのかなとか。就職してからの生活も不安で」
「そっか。僕にはどうすることもできないね」
あの人はコーラを一口飲む。さっきのピザと一緒に頼んだもの。

「でもさ、」
私は、あの人の喉が動くのを見上げる。

「あんまり思いつめないほうがいいよ。仕事なんて本当にたくさんあって、就活で行きたいところに行けたとしても、人間関係とか環境が合わなくて辞めてしまうこともあるから。これが人生最大の選択になる、なんてことは思わなくていいと思うんだよね」

「…うん」
本当に話したいこと、聞きたいことはこんなことじゃないから、私は返事に困ってしまう。言いたいことは伝わるけれど。

「僕もさ、転職していまこの仕事してるんだよね。最初の会社は働き方が合わなくてさ。給料は良かったんだけど」
「…へぇ。意外。なんか悩みとかなさそうに見えるから」
「そう?あるよ僕にも。毎日仕事ではストレス溜まるし、イライラして、いつかこの会社も絶対辞めるって毎日思ってる」
「…辞めたら次は何したいとかあります?」

「次のことはね、具体的には決まってないかな。その時が来たら、と思ってるだけ」

あの人の人生設計があんまり決まっていないのは意外だった。結婚とか恋愛とか仕事とか、何となくじゃなくて意志があって動いてると思ってたから。
私がそういう人だと見ていただけ?
明確な設計があるから、私はあの人の人生に深く入り込むことは出来ないんだろうなって思っていたのに。心が揺れる。
もしかしたら、私はもっとあの人に入り込める?

だめだと押し込んでいた気持ちが、溢れそうになる。

好きって言いたくてたまらなくなる。

それでも言ってはいけない。言ってもいいことがないから。私のために、私の都合のいいままのあの人でいてもらわないと。

そんなふうに勝手に葛藤していたとき、私のスマホの通知音がなる。

"元気?"
"あのあとはちゃんと家に帰ったよ"

そのメッセージの送り主は皓太郎だった。

どくん、と心臓が大きく鳴る。
3日ぶりに送られてきたと思ったらこれなのか。
一応自分が悪かったと思っているのか、3日前の約束どおり家に帰ったことを報告してくる。

今さら送ってこられても。

それにやっぱり皓太郎は謝らない。あの日はごめんねって、私に言わない。

皓太郎のそういうところが私は嫌だった。付き合ってから、よほどじゃない限り自分の非を認めない感じ。
私の怒りが収まるのを待って、収まっただろうというタイミングで、いつもどおり接してくる。
私もその頃にはどうでも良くなっていたりして、皓太郎に会いたくなっている頃だから、大体私達のケンカはそうやって何事もなかったように二人で過ごして、それで何事もなかったことにする。

私達はそうやって、今までを繋げてきた。
繋げてこれたのは、結局は私の我慢のおかげだった。

今までだったら結局返していたはずの返事が、今はまだどうしても出来ない。


もしかしたら、この先もできないかもしれない。

皓太郎はタイミングを間違えたのだ。
謝ることもできなくて、プライドが邪魔をして。

いつまで私に甘えているんだろう。

私は皓太郎への怒りと呆れをどうにか忘れたくて、あの人をすがった。
あの人の隣に座り直して、身体を寄せる。
あの人の表情は特に変わらない。
でも、私にとってはそれでよかった。もう何でもいいから、ぬくもりに接していたかった。

「私、この先上手くやっていける気がしないです」
皓太郎と別れるという選択肢が、急に私の中に浮かび上がってくる。

「それは考えすぎだよ」
いや、考えすぎなんかじゃない。もともとあった違和感が積み上がって、今ついに崩壊待ったなしになっているんだから。

「何とかなるんだから、どうなっても結局。だから、そんなに思いつめないほうがいいよ、まだ始まってもないんだしさ。人生長い目で見たら、就活って別に大したイベントじゃないよ」

あの人の腕に、自分の腕を絡める。

「…とりあえず、今日は忘れることにします」

「そうしよう」

今日はあの人と私の時間を大切にしよう。
私を大切にしない人のことなんて考えない。そのほうがいい。

「ピザだけだとちょっと物足りないね。デザート欲しいな」

「コンビニとか、行きます?」

「そうしよっか。あと、やっぱり飲みたくなっちゃったからお酒も買おうかな」

「今日が貴重な休肝日なのに、いいんですか」

「まあ、明日は休みだし。何も予定ないからゆっくり寝て、それで回復できるよ」

「じゃあ、いっか」

明日、あの人には何も予定がないらしい。良かった。ここには私を大切にしてくれる人がいる。
あの人にとって都合いい私じゃない。

もっと、あなたに大切にされたい。
そんな思いが、さっきから少しずつ大きくなっている。



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