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「"信じる"と言う」こと

「信じる」ってなんだろう、「信じる」と言うのってなんでだろう。
そんなことを考えた話。

別アカウントでも少し書いたけれどこちらでも改めて。
(久々にこっちのアカウントを見たら、何ヶ月分か通知が見れてなかったことに気付きました。見れてなくてすみません…というのは別話)

いまは昔、yahooだったかどこかのサイトのブログに詩や小説モドキを書いていたころの話。

ブログにはもちろんコメント機能があって、僕の記事にもたまにコメントがついたりしました。
僕からは積極的にコメントすることはなくて、基本的に一度コメントをもらったら返信しつつ一回分お相手の記事にも投稿するような形で交流していました。

コメントをくれる中に自称女子高校生のアカウントがありました。
その方も詩を掲載していたので、詩のタグをたよりに僕の記事を見てくれたのだと思います。

いつも通りコメントをもらうたび、こちらも相手の記事にコメントするために投稿を拝見するということを繰り返していました。

さて、そのブログにはフレンド機能のようなものがあり、記事によってはフレンドだけに閲覧を許可したりできました。(その他にもできることはあったかもしれませんが記憶は薄いです)
フレンド機能についても受け身で、僕から増やすようなことはしていませんでした。

件の女性のアカウントはフレンド向けの記事をたくさん作っていたようで、記事のタイトルだけは見えた記憶があります。
察するに、高校生なのに家庭環境で苦労している話や、露出の多い写真の投稿などがあったようです。

彼女のブログにはそんな記事を見に来ている男性が多い印象でした。


そんな折、詩を作る仲間として相手からフレンドになりましょうというお誘いがありました。
特に問題なければ誘ってもらえたなら受け入れていたのですが、この方に関しては少し気になることがあって。

投稿されている詩のなかに、歌詞のような長さの作品もあったのですが、それがなんというか…パクリに見えたのです。
既存の歌をほぼそのまま、部分的に申し訳程度に単語を変えているような内容でした。
(ボーカロイドの曲やアニメで流れる曲だとかだったと思います)

奇跡的にオリジナルの詩が既存曲と被ってしまった可能性はゼロではないのかもしれませんが、それが数曲に渡るとさすがに偶然でも奇跡でもないのだろうと思えました。

コメントを書き合うだけであればそれらの記事を避けて話せばよかったのですが、フレンドという繋がりを作るにあたっては幾ばくかの抵抗感がありました。
だから言及してしまったのです。
フレンドになる前に聞きたいことがあるのですが、と。
自分の言葉でも世界観は十分作れるのではないでしょうか、と。

僕もあの頃はまだ若かった、いえ青かったですね。

彼女のブログには、まるで盗作でもしているかのように言われ傷ついた、という記事が投稿されました。
どの記事が指摘されたかというような情報は載っていなかったと思います。

その記事には彼女のフレンドたちから励ましのコメントがついていきます。
文を書けない人のやっかみだとか、変なやつの言うことなんて聞かない方がいいよだとか。
おれは○○ちゃんを信じるよ、だとか。

信じることって、信じると伝えることってなんなんでしょう。
自分に近い人の言葉を鵜呑みにすること。
事実など関係なく盲目的に寄り添うこと。
自分は味方だと打算的に伝えるための方法という考え方もあるかもしれません。

皆さんはどんなときに、どんな背景のもとで「信じる」と伝えますか?

それから、僕は人に対して「信じる」と言うことがとても難しくなりました。

余談ですが。
後日彼女はアンケート機能を使って、自分は創作を続けるべきかどうかという投票をしていました。
一票でもやめるべきという票が入ったらやめるという触れ込みでした。

投票でそれを決めることにも違和感はありましたが、僕は投票せずに観察だけしました。
投票者はフレンドが多かったでしょうし、最終的には続けるべきが大多数でした。が、やめるべきとどっちでもいいにも何票かずつ投票されていました。

結論として、やめるべきという票もあったけれど続けるべきだと励ましの言葉をくれた人がいるからこのまま続けることにする、というのが彼女の答えでした。
そこからは特に関わることはありませんでした。

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